菜種梅雨が明けた。
弥生の終わりに、曇りや雨ばかりのすっきりしない天気が続いた。誰しも「まだ寒い。春はまだかまだか」と冷えた手先を擦り寄せる。柏手にも似た手祈りが重なったお陰か、暖かい日差しを抱えた太陽が青空に登った。
それを待ちわびていた多くの花々がつい昨日、一斉に蕾を綻ばせた。
「いよいよ春が来るね」
春の来訪に喜びをあげたのは歌仙兼定だった。僕ら左文字兄弟が揃う部屋にわざわざ訪ねきて騒いだ。
僕は小夜の髪を梳いていた。撫でても撫でても癖の強い髪は跳ねかえる。兄が持ち合わせていない、弟二人だけに与えられたこの癖が僕は好きだ。僕に強さを誇る青の身色がない分、少しでも兄弟らしさを見出だすと縋ってしまう。だから暇があれば固い髪を梳いて、大切にしている。
三人分の布団を敷いていた兄・江雪は、歌仙へ煙気に眉を潜める。取り合わないず、枕を三つ抱えるとそれぞれの布団へ並べていく。
「うんうん、梅も満開。庭の桜の木を見たら、一輪ほど花が咲いていたよ」
桜の開花情報を尋ねてもいないのに告げてくる。囀りで春を教えてくれる鳥が夜中に迷い込んだかと、僕は錯覚してしまう。朝と夜を間違える鳥も居たものだ。
「鶯はいるから、歌仙はメジロかな・・」
小夜も僕と同じ勘違いをしたらしい。櫛を当てていた頭から、ぼそりと小言が聞こえた。僕は笑う。歪な間柄でも考えが似通うと愉快になる。
「歌仙、何?こんな夜遅くに。帰る寝床を間違えているの?」
小夜が障子に持たれる歌仙に問う。
「案内しようか」
単に揄っているのか、真面目に心配しているのか。小夜が珍しく世話役を買ってでる。本当に部屋まで送ってやるつもりで、中座までする。
小夜は歌仙相手だからこそ容赦ない。歌仙の持ち手であった細川忠興は曲者で、彼も僅かにその質を引き継いでいる。突拍子に悪い質が表へ出ないか、小夜なりに気にかけているらしい。細川家で朝夕共に過ごし、嫌になるくらい気が知れた証しだ。
「まさか。僕は帰る部屋を間違えるほど子どもでないよ。小夜、腰を落としたままで構わない」
歌仙も小夜の手合いには慣れている。さらりと受け流す。小夜は歌仙が目的があって部屋まで尋ねたとわかると、大人しく座り直した。
「僕は宗三を誘いに来たのさ。酒を傾けよう」
右手で杯を傾ける真似をする。
「はあ、酒ですか」
生ぬるい声音で返した。時折、「風流な面子で酒を飲みたいんだ」と主張する歌仙に僕は誘われる。
歌仙は僕を風流と括る。長い間天下人の手の内にあり、そこでしか触れられない広く浅い見識を買ってはいない。歌仙の話に容易く相槌をうつ軽さが、酒の席では丁度良いらしい。誘われるだけなら別段驚かない。
「突然ですね」
馬当番で顔を合わせたし、もちろん大広間で夕餉を共にした。計画があれば、昼間に僕を誘う時間はあった。
「雨が止むのも突然だろう?そこに風流が必然生まれるのならば、それを肴にするべきだ。あるべき風流に敬意を払うべきだ」
「要は、歌仙が飲みたくなったんだね」
僕が心に止めていたことを小夜が代弁してくれる。的を得られた歌仙がそれを隠すように咳払う。
「新しい酒の飲み方を教わってね。試してみないかい?ツマミも用意してある。手持ち無沙汰でもかまわんさ」
来なければ損をするぞ、と言わんばかりに豪語する。
僕は戸惑う。降って沸いた話だ。飛びついて行く程の誘いではないが、無下に断りを入れては勿体ない。兄弟と静かに過ごす夜は好きだし、酒を舐めて心地よく酔うのも一興。
遠慮のない本音を語れば酒は飲みたい。気のおける飲み仲間とではなく慕う兄と、であるが。柄でもない睦言を交わして酔ってみたい。
しかし、ネズミの心臓より小さくてちっぽけな願いは叶わない。兄は身体を惑わすからと酒を忌避する。頭の内側までとろとろになる僕との交わりは好きなくせに、変なところで潔癖だ。
些細な願いは実現不可能。ならば、容易く手に入る酒だけでも飲みたい。僕は自分から席を設けるほど多忙でないし、酒に触れる機会が本当に久し振りで気持が揺らぐ。
「行っても良いですか?」と兄に視線で強請る。立てるべき兄が居れば、その許しを請うのが可愛い弟の姿だ。
「・・・・・・夜更けに、お前が出歩くのですか」
沈黙が長かった。兄は不信の眼差しで僕を深く疑っている。ただでさえ不貞な弟が酒を飲みに夜中出回る。春の野山に盛ったウサギを放つようなものだ。「どうせ帰ってこないでしょう」と余計な勘ぐりで追撃される。
僕は「兄様が居る夜にわざわざ他の男を選んで交うほど酔狂じゃない」と反論したい。貞淑さが表立って見えないだけで、ちゃんと残してはいるのだ。
「日は暮れたばかりだ。床入りの早い三日月だってまだ起きている」
「・・宗三兄さま、付き合ってあげてよ。歌仙がまともな思い付きをするなんて、そうとう飲みたいんだ」
「あの鬱憤を貯めた顔を見ればわかるよ」小夜が言う。嫌でも同じ箱庭で暮らしていた分、歌仙の感情の機微が分かるのだろう。
「後は自分でやれるから」
小夜は僕が持っていた櫛をとる。鏡も見ずに櫛を動かし始めた。気が付けば、小夜が僕の肩を持ってくれていた。
「行ってきなさい」
兄の大きなため息が零れる。
「兄君から了承がでたね。行こう」
「ほどほどにして帰ってきます」
後ろ髪を引かれながらも、一言残して部屋を出る。歌仙と連れ添って酒の席へ向かった。小夜の一声には、やっぱり兄も甘い。僕と同じだ。後日、食べたがっていたちょっと高めのお菓子をお礼に買ってあげよう。
残された兄弟二人。春の荒しが去った静けさに、呼吸を漂わせる。一人分の息がいきなり欠けた部屋は物寂しい。
「宗三兄さまは、最近忙しいね。一昨日の夜は織田の人の所へ行っていたし、昨日は手入れ部屋に居る薬研に会いに行ったきりで」
小夜がぼやく。珍しく身が落ち着けない宗三を追うように、締められた障子を眺めた。持っていた櫛を箱に納めると、江雪の袖を引っ張る。
「兄さま、本を読んでよ」
「・・はい。みたい本があるのならば、選びなさい」
小さく顎を引いた。部屋に備えられた小さな本棚に近付いた。
「ごんぎつねを読んで」
「気に入りの本でなくて、良いのですか」
小夜が狐の絵が描かれた本を持ってきた。小夜の好みは短刀達の流行りに感化されやすい。今は戦隊シリーズという、善が悪を凝らしめる一方的で分かりやすい物語に夢中だ。何でも二百年近く続くシリーズで、本丸の図書館にも色とりどりの分厚い本が並んでいる。
ごんぎつねは道徳的な本で、江雪が親心でいつも選ぶ。小夜がわざわざ江雪の好みに合わせるとは珍しい。間違いがないかと確認する。
「今日はこれがいいんだ」
「そうですか。読む前に布団に入りなさい」
小夜を布団に入れてやる。二人並んで腹這いになって、絵本を追う。小夜の左肩がもの寂しい。三人そろっている夜は、小夜を真ん中に肩を寄せ合って眠る。温かく寝心地が良い筈だ。
「江雪兄さまは、宗三兄さまが居なくても平気?」
ふと、小夜に問われる。ちょうど本を読み終えたところだ。
「どうして、そのようなことを?」
「久しぶりに三人揃う夜だったのに、江雪兄様は止めなかったから。歌仙が辛そうだったから、僕は宗三兄さまを貸してあげてしまったけど」
大きな瞳に瞼がとろとろ覆いかぶさる。
「僕は江雪兄さまも宗三兄さまも居ないと、寂しいかな」
すーと寝息を立てて落ちていく。江雪はまた、ため息を溢す。小夜の体に寒くないよう布団を丁寧にかけなおした。






歌仙の部屋に着く。馴染みの刀が揃っていた。
「先に頂いているよ」
蜂須賀は猪口を持ちあげる。煌びやかな内着を纏って、ゆったりと胡坐をかいている。
そこにへし切りもいた。僕を見止めて少し眉を潜めるも、何も言わず酒を舐める。
へし切りは内着でなかった。私室へ帰る途中で捕まったのだろう。カソックを脱ぎ、白いシャツの首元を緩めている。随分寛いでいた。
へし切りと目が合わさる。僕は無言で自分の左鎖骨を叩いた。「一昨日の夜、僕が貴方に跡をつけたんですけど。気づいてませんか?」と問う。慌てて首元のボタンを締めるへし切りが滑稽だ。
「この面子になるんですね」
「僕は僕が思う「風流」の面子しか集めないからな」
数名の打ち刀だけ集めた飲みだろうと薄々は気づいていた。歌仙の夜の誘いは、だいたいこれだ。
膳にツマミが並べられている。品の良さそうな和菓子や淡い色の漬けモノ数種。火鉢が二つあり、それぞれたっぷり炭がくべてある。
火鉢の口に金網を引いて、一つは薬缶が置いてある。注ぎ口からゆらゆらと白い湯気が登っていた。もう一つは鍋で、とっくりが数本浸かっている。
酒と食べ物と火鉢と飲んだくれた男数名。これが風流と呼べるのか、首を傾げる。歌仙が風流と言えば風流になるのだろう。
座布団をとって、火鉢に寄る。夜はまだ寒い。濡れ縁を歩いているうちに、体がすっかり冷えてしまった。へし切りが頬を染めて美味しそうに酒を楽しんでいたので、ちょっかいを出す。僕も早く温まりたい。
「それなんです?」問いながらへし切りの手から椀をとる。
「河豚の酒だ。少し飲んでみろ。少しだけだぞ」
「ふぐ?」
ぷくっと頬を丸々ふくらませる、あのフグか。
干したヒレフグが焼いてあった。それをお椀に入れて日本酒を注ぐ。マッチで火を擦り、ヒレを焼くと香ばしさが増すらしい。優しくかきまわした後、蓋をして蒸せばできあがる。飲むときは浸したヒレの取り出しをお忘れずに。
「蜂須賀が、下町に降りた時に酒屋で教わってね。そこの旦那が下関の出だったんだよ」
「それを歌仙に話したのが運のつきだ」と酒盛りに至った経緯を語る。
僕は猫のようにちろりと舌先を当てる。初めては何事にも臆病だ。
「美味しいですね。初めての味です」
焼酎に魚の旨みが染みている。これが、歌仙言っていた新しい飲み方か。確かに、酒でダシをとる飲み方も珍しい。少しと念押しされた言葉を忘れて、一滴残さず煽った。干した椀を返す。
「お前!」
へし切りが怒鳴る。まるで、自分の獲物を横取されて怒るカラスのよう。人の喉元をイヤらしい目で見て何をいうか。
「酒を一杯干されたくらいでごたごた言わないでください。技量が狭いから、貴方はまだ下げ渡された過去を引きずるんですよ」
「一番ごだごだ囀るお前が言うか」
「言ってますっけ?僕」
「へし切り、宗三、酔いの喧嘩にしては早い。もう酔ったのかい?」
一発触発の雰囲気を蜂須賀が茶化す。へし切りはふぐを齧りつつ、しぶしぶ新しい酒を作る。風変わりな酒を好むへし切りは気に入ったらしい。膳の横に、ヒレ酒用の器が三つ並んでいる。二つの器の底にはヒレが転がっていた。歌仙も蜂須賀も味見を済ませた後のよう。
「宗三、持って来たよ」
「どうも」
待ちわびていた酒が僕の手元にやってくる。茶色の液体が詰まった瓶を受け取った。
ウィスキーという、外国の酒だ。へし切りが主の戯れに預かったとかで手に入れた。
へし切りの部屋で見つけて、僕はもの珍しさに強請って飲ませて貰ったのだ。「主から賜ったものを、お前に飲ませられるか」とへし切りは強く拒んだが、僕の体を引き合いに出せばあっさり口にさせてくれた。主命も傾国の体で折れるのだから安い。
初めて口にしたとき、これは好きだと思った。麦の香ばしさが鼻腔と喉奥を掠る。
日本酒にはない麦の風味が僕にあったのだろう。へし切りは同じ麦なら日本酒だと譲らない。どうせ飲まないからと、主から貰っては僕に渡してくれるようになった。
毎夜嗜みはしないので、酒を飲む機会が多い歌仙の部屋に取り置きして貰っている。
「氷もあるよ」
「抜かりないですね」
「もちろんさ。僕が用意したんだからな」
桶に入った氷ががしゃんとなる。
「僕が作ります」
もう氷を砕いてくれていたようで、口の広いグラスに塊を投げ込む。栓を開けたボトルから、黄金色の酒を注ぎこむ。
酒を氷で薄めながら飲むのが、僕の嗜み方。一口飲んで、時間を置いて。次に口に含む時、違う濃さを楽しむ。
「宗三は古風を重んじるかと思えば、案外歌舞いてるよね」
「歌舞のも楽しいですよ。蜂須賀もどうですか?」
「あいにく、俺はこれで腹いっぱいだ」
グラスを傾ける僕を、毎回おちょくるのは蜂須賀だ。蜂須賀の方が身の丈は十分西洋に歌舞れている。熱々に温めた熱燗しか口にしない偏食家は意外と懐古主義で可愛い。
「おい、歌仙。飛ばしすぎだぞ」
歌仙が一生マスに注がれた純米酒を高く持ち上げくーっと煽る。風流を忘れた漢らしい飲み方が歌仙の心意気を語っている。
各々好みの酒を舐め、ツマミを租借し、下らない話に興じる。
下町の薬屋が亜米利加から人を惑わす秘薬を仕入れ暴利を得ているだとか。五虎退の虎が迷い猫と火燵で肩を寄せて寝ていたとか。池の鯉がそろそろ卵を産むから見張っていろと刀の本分と違う主命を賜ったとか。
宵の口か回れば自然と話は僕らの本分に移る。口火を切るのは歌仙だ。
「最近太刀中心の隊編成が多いと思わないかい?僕らはほぼ第一線から消えてしまった」
戦況が厳しくなるにつれ、余程鍛練を積んだ打ち刀でないかぎり、第一線の隊から外される。主流は太刀や大太刀だ。認めたくはない「性能」の差がどうしても表沙汰になる。性能に追いつけない身をどこにおこうかと、暗に嘆いているのだ。
僕も、似たような嘆きを兄にだけ溢した。「戦場に立たない事は有難いことです」と顎の裏を撫でられ終わった。
歌仙が今荒れているのも、第一隊からいよいよ外されたからだ。深く憤る大人げない姿もできず、戸惑っているのだろう。だから、唐突に愚痴の溢しあいの席を設けた。
「まあ、第二部隊・第三部隊にも仕事はある。戦場から遠ざけられる訳でもない。そう言うな」
専ら近従勤めのへし切りが宥める。僕も蜂須賀も酒を撫でるように傾けて、慰めの言葉はかけない。かけ合ったところで、酒が抜けた後余計惨めになるだけだ。
「まさか、太刀に勝りたいなんて抜かすんじゃないだろうね。力の差は歴然だろう。それを覆すのは大変だ」
「そこで僕は考えたのさ。投石の錬度を上げて、白刃戦の前に刈りつくしてやればどうだ」
蜂須賀が歌仙を茶化す。すると茶化された歌仙は胸を張った。ただでは転ばない良い性格だ。僕はあるがままを受け入れて、もう花形の第一隊への憧れなど捨てている。
「落とせると思うかい?」
「へし切り、この間の戦、投石兵で打ち刀を落としましたよね」
「ああ、あれは運が良かった。投石金兵を二つほど主に渡されていたおかげだろうな」
「俺らの錬度次第ということか。検証の価値はある」
「それはいいなあ。太刀の出番がなくなるなんて、実に愉快だ」
「それって、僕らもう必要ないですよね?」
「全くだ」と一同笑う。
二刻経った頃、歌仙が潰れた。品のない量を飲みほしたツケだ。追ってへし切りも杯を
落とした。僕は量を飲まないので気分が良くなる程度。酒に酔うよりも、交わりに喜び酔い浸る性質なのでしかたない。主役が消えれば、場はお開きとなる。
僕は初めに鉢の火を落とす。次に使った皿や杯を盆に重ねる。
「俺が持って行くよ」
「いつもありがとうございます」
「酔っ払い二人を任せる代わりだ」
使った食器は、部屋から台所が一番近い蜂須賀に頼んでしまう。蜂須賀は重ねられた膳を器用に持ち上げる。
「早く兄弟が見つかれば良いですね」
政府からの頼りで、虎徹の兄弟が過去に降りた知らせが入った。第一部隊が、時を遡り探しに出かけている。
「・・弟には早く会いたいよ。兄とは・・どうかな」
複雑そうに顔を歪ませる。
「兄も良いものですよ?」
「君みたいに、出来た兄を持てば盲目にもなれるけどね」
僕からしてみれば、贋作に拘る蜂須賀も十分盲目だ。綺麗な髪をなびかせ行ってしまった。
「宗三、酔っていないじゃないか。いけないいけないもっと飲まなければ」
畳に突っ伏していた歌仙が、芋虫のようにもそもそ身じろぐ。襟元を縋る様に掴まれた。潰れた体で酔えていない僕の心配までしてくれる。酔っ払いは嫌いだが、歌仙のような絡み酒は可愛くてついつい世話を焼いてしまう。
「十分頂きましたよ。ヒレ酒美味しかったです」
肩を支えてゆっくり畳に横たえる。押入れから出した布団をかければ「それはよかった。続きはまた、明日なあ」と寝言が続く。一人片付いた。
へし切りが苦しそうに寝がえりをうつ。シャツのボタンすべて外してやる。潰れたへし切りは只管眠る。これがなかなか起きない。
前に悪戯で寝込みを襲ってみたら、一度も目を覚まさずにへし切りの体は極めた。意識は沈んでいれど、咥え込んで跳ねる痴態を繰り返せば体はしっかりと快楽を貪りる。性欲とはほとほと尽きない勉強させてもらった。
僕の戯れで治験体にされた夜を、へし切りはもちろん知らない。
スラックスも寛げておいてやろうかと手をかけた時、部屋に人影が指した。何か忘れ物をした蜂須賀が返って来たと思ったら、兄が居た。いつもなら遠に寝ている時間だ。振り返って目を丸くした。
「・・兄さま、どうしました?」
「帰ってこないので、酔い潰れているかと思いまして」
へし切りから手を放す。疚しい企みなんてない。兄の手前、他の男に触れるのは気が引けた。
「僕は、この通り平気です」
へらっと笑う。兄直々の迎えは初めてだ。夜通し遊んでいても、迎えに来てくれた事なんて一度もない。心境の出来事に戸惑うものの、心配されればば嬉しい。その細腕に苗木のように寄りかかりたい気持ちを抑える。
「寛げて差し上げては」
「あ、はい」
促され、スラックスだけ寛げる。布団を駆けておいた。世話焼きはこれでおしまい。
「部屋へ連れていかなくても?」
「最初のころは連れて行っていたのですが、毎度のことなのでもうここで寝せるようになったんです。仲の良い寝顔でしょ」
ぐっすり眠る二つの顔を確認して、部屋を後にする。静まり返った縁側を二人足音を響かせ歩く。
「今日は美味しいお酒に預かりました。フグヒレを焼酎に漬けて炙るんですよ。魚の旨みがお酒にうつってね、」
酔った勢いか、心配された嬉しさにか。口が滑らかにまわる。僕の先を行く背に意地悪く問いかけたい。
(僕の帰りをわざわざ遅くまで起きて待っていてくれた?酒に酔いつぶれて動けなくなる僕を心配した?勢いに任せて見境なく寝るとでも気を揉んだ?)
勝手な想像を自由に巡らせ、僕は虚しく喜ぶ。兄がどこまで僕を慕っているかは気づいている。だから、儚い期待だけを寄せて自分を慰める。
「今日、歌仙が面白いくらいに潰れてしまって。全く酔わなかった僕が気に入らなかったのか、また明日、今日の続きをどうだって」
「宗三」
兄が歩みを止める。後ろを追いかけていた僕はつんのめる。
「遊ぶのも大概にしなさい」
いつもより低い声に咎められた。兄が振り返り、熱のない眼差しで僕を射る。火照った体が急速に冷めていく。夜風に当たったせいでない。
「どのくらい、兄弟揃ってゆっくり夜を明かしていませんか」
近日の夜を振り返ってみる。
七日前に僕は戦から戻った。その夜に入れ違えで小夜が遠征へ。今回は少し長い旅路で兄と二人、小夜の無事を三日祈った。
小夜の帰りを待たずに、兄は予定通りへ出掛けた。一人で淋しい夜を一日越して、ようやく遠征部隊が帰ってきた。
小夜と二人の夜も、静かだった。いつも通りに髪をすつて絵本を読む。小夜が寝付いてしまうと暇になって、悪戯にへし切りと寝た。昨日の夜、ようやく兄が帰ってきた。同行した薬研が大怪我負ったと聞いて、手入れ部屋に様子をうかがいに行ったつもりが、珍しく弱ったことを言う彼に朝まで付き合ってしまった。そして、ようやく兄弟揃って息をつける晩に僕は飲んで。
「すみませんでした・・・」
流石に、遊びが過ぎた。兄が好き。小夜を大切にしたいと散々言っていながら、最近の僕は身の振りが伴っていない。
「驕りが過ぎました」
兄の瞳は真剣で、茶化す気にもなれない。僕は肩を落とす。
「遊びに行くなとは言いませんが、出来る時は傍にいてください。小夜も寂しがります」
「はい。小夜くんを寂しがらせてしまって、すみません」
言葉ひとつひとつが胸に刺さる。こんな僕でも、居なければ寂しいと悲しんでくれる小夜に心から謝る。
「小夜の為だけでなく、私の為にも」
「え?」
するりと兄が僕に近寄る。僕の肩に頭を預けた。柔らかい髪が落ち込んだ僕の頬を母親の掌のようにやさしく撫でてくれる。
「お前が、他の刀達と居て不快とまでは言いません。止めろだなんて、もっての他です」
兄の挙動が可笑しい。綺麗な能面を平素掲げる兄は、僕と違って節度がある。廊下で弟に縋ったりしない。
「ただ、他の刀よりは多く、お前の傍にいさせてください」
僕の傍に居たいなどと冗談めく。
「兄さま?どうしました?お酒が入ってます?」
残念ながら兄は酒に強くない。そして迷い事を口にするのも酔った時のみ。素面で僕を口説く器用さはない。夕餉に酒を使った料理は並んでいなかった筈と献立を振り返る。
「酔ってなどいません。私にも、お前を慕う心くらいはあると言いたいだけです」
参った。どうやら、僕の肩に頭を預ける兄は素面だ。
「本当に?僕に隠れてお酒を飲んではいませんか」
両目の前で手のひらをひらひら振って執拗に確認する。再三疑われ、兄がムッとする。煩わしいのか、腕を取られて静止させられた。僕が真面目に取り合っていないと、目くじらを立てる。
「お前が他の男の元へ行けば、私だって醜い感情くらいは抱きます。心配にもなり、こうして迎えにきます」
「・・僕と放れてしまうのは嫌、と言いたいのですか?」
「当たり前です」
(これは、狡いな)
好いた相手と放れたくない。全うな恋情を垣間見せる。
僕が酒に誘われた時は、溜息一つで許したじゃないか。なのに、今更それを嫌と言った。
(狡い)
今日まで培った爛れた仲は、僕が一方的に兄を慕うことで陽の目をみると信じていた。
兄は尊い。仏のように物腰が柔らかく、達観した眼差しで生の明を見つめ、人の暗を嘆く。必要とあれば奮える腕もある。
数多の天下人すら持ち得なかった奇異の雄を目の当たりにして、僕の酔狂が芽を出した。もの珍しい綺麗な魚を見つけてはしゃいでいた。
兄が堕胎な僕に目をかけてくれる行為は望み薄と察した。ならばと、慣れた手法で、その手に口に体に寄って縋って引き摺り込んだ。
「私を知って、お前が悔わないのであるば」
「どんな兄さまでも、好きですよ」
警告にも似た許しに、僕は飛び付いた。
まさか、その意味を今になって気が付くなんて。
「宗三」
兄の眼をじっと見つめていたら、揺すぶられる。驚いて肩を引いてしまう。背が障子に当たり、揺れる。留るこの場は、人目につきやすい濡れ縁だ。兄も我に返ったようで、辺りを見回す。
いつもなら迷わず部屋へ帰った。今夜は違う。
「こちらへ来なさい」
僕の手を取ったまま、部屋へ滑り込んだ。部屋は空だ。本丸では一人一室与えられる。兄弟や気の合うモノと集うから、自然と空き部屋が増える。
「兄さま、ここに入って何を」
「不貞な弟を抱いて躾てみようかと」
「は?」
躾、などと物騒な物言いに戸惑う。兄が選ぶ言葉にしては美しくない。
棒立ちする僕を抱き止めて、帯紐を解いていく。シュッと布ずれ音が響く。
「・・いつになく、大人しいですね」
僕らしくないと揄う。普段なら、じゃれついて喜々と兄の唇を吸っていた。兄もきっとそれを待ちわびている。
僕に軽々しく先をねだる余裕などない。兄に好かれていると知って、弱っていた。雨に濡れた小鳥のように体を縮めて震えている。
しかもだ。とんでもない男の袖を引いてしまった。他人の関係に頓着せず、あっさりしているかと思ったら、意外と執念深い。
気持ちが通じて嬉しい反面、緊張してしまった。背筋がゾクゾクする。頭の中が真っ白に染まるとはこの事か。肌に指先一つ添えられるだけで顔から火が出そう。
「・・恥ずかしい」
「ようやく羞恥を覚えましたか」
今更羞恥を抱いたものの、遅い。兄の意気地は決まっている。零れたセリフが今までの行いの反省だとは気付かないだろう。
「江雪、恥ずかしい」
「どうしました、宗三?」
久し振りに「兄」の敬称ではなく名を呼ばれて、機微の変化に気づいたらしい。口調も以前のように砕けてしまっている。
僕は兄と懇意になる前、敬語を使っていなかった。兄弟と知った処で、育った環境が違った。急に兄弟と括られても肩身が狭く、敬語を使う気になれない。
けれど、気持ちが一変した。兄と関係を悪戯に結びたくなった。急に馴れ馴れしくなっては周りに怪しまれる。他人の目を誤魔化す為に、兄と呼び敬語で慕うようになった。その敬語が溶けてなくなってしまっている今、僕が相当に戸惑っている証拠だ。
「今夜は貞淑で居させて」と頼みこんで許して欲しい。臆病になった今、軽々しく口に出せない。羞恥で身動き一つとれない僕を、物欲しそうに狙う兄がいるから。
困り顔の僕を見かねて、頭をさわさわ撫でてくれる。弟を可愛がる手つき。僕は「大丈夫」と自信もなく頭を横に振っておく。
「…恥ずかしがる宗三も、珠には悪くありません」
「珠には?」
「珠には」
ふふ、と軽い息を吐く。やっぱりはしたない僕が好みなのか。ムッツリめ。
「江雪は、狡い。崇高なフリをして僕を騙して。僕が好きなら、早く口で言ってもらわないと」
「騙したつもりはないのですが?予め、警告はしておきました。それに普通、褥を共にする時点で好きと認めたものです」
全うな一般論を説かれてしまっては、僕に勝ち目はない。完全に喉元を掴まれた。
「わざわざ兄弟と不貞を犯してつがいの真似ごとに耽る俗物を、ここまで愛してくれるのは、お前だけですよ」
真顔で甘言を吐く。腹に隠しているその素直さが狡くて、こんなにも僕を惑わせる。数々の天下人の手に渡り、甘いも好きも知り尽くしたこの僕をだ。
最後の抵抗で兄の隙をついて逃げ出そうとする。悲しいかな。太刀と打ち刀の性能が如実に現れる。あっさり捕まってしまった。畳に倒される。
「どのように、躾けてあげましょうか」
閨の遊びと思ったのか、くすりと綺麗な顔で笑む。僕の首筋を甘く噛んだ。鹿を狩り、戦利品に匂いを擦りつける獣と同じ。
(優しい兄さまが、僕の不貞で嫉妬に狂い腹の下に納めようとするなんて。執拗なの、癖になりそう)
しばしもがいた後、観念して躾に甘んじた。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。