僕は幸せだ。
非番の日が晴天に恵まれた。凪ぐ風は優しい。畳に横になれば気持ちの良さにころりと寝てしまいそう。
それに兄の江雪が居る。僕は兄にじぃと見詰められている。怖い顔だ。穏やかな表情を見せて欲しい。
たが、兄に叱られている緊迫したこの状況では、それも叶いそうになかった。


目前に御座しますお兄さまは、深く深く眉を顰めて僕を咎めていた。
僕はお説教を受けている。
雲ひとつない天気の良い日に、慕う兄から直々にお叱りを頂戴するなんて。これ以上の幸せが有ろうか。時の権力者の寵愛をうけた常盤御前とて、この甘美を知らぬであろう。
人が人を叱る厳しさは単純でない。叱る方にも体力を削る犠牲が伴う。授肉し弟の小夜を偶然得て、その苦労を僕も知った。小夜は心根の悪い子ではないけれど、人並み外れた失敗を知らぬまま犯すので厳しく指摘してやらねばならぬ事もある。兄は手のかかる弟が二人もいるから、気苦労も増して大変だ。
目を掛ければ掛けるほど、口を出すうちに自然と「叱り」に隠れされた「慈しみ」の心も増す。「叱り」は裏を返せば、相手に目を駆け、慈しむ覚悟の表れだ。
それを手一杯与えられれば、嬉しい。どんなにキツいお叱りでも、兄から与えられるのであれば僕は残さず飲み干す。
「宗三聞いているのですか」
肩を強請られる様な強い口調で兄に咎められる。僕は慌てて背筋を伸ばした。
「兄さまに怒られて、幸せの真っ只中にいるんです」なんて可愛気は兄に通じない。
「聞いています。僕は悪くありませんよ」
「腹に痣を作るほど人を殴って言いますか」
疑惑の視線が僕を離してくれない。柳眉を下げて、か弱いふりをする。できるだけ、身の丈を低く繕う。
今朝方、へし切と喧嘩にもならない言い争いをした。その末に拳が飛んだだけだ。
品行方正な僕と質実剛健なへし切長谷部が台所で殴り合っただけでお説教なんて、兄も過保護だ。いくら二度焼きされて刀掛の御飾りになってしまっても、易々と折れるほど柔でない。僕らは肉を纏っているように見えるだけで、内蔵は鉄に過ぎない。
「争いは何も生みません。暴力を控えなさい」
耳に馴れた説法も、僕が可愛い末のお小言かと都合よくすり変えてしまう。
語るほどでもない喧嘩の発端は、僕の(片棒を担がせて良いのなら兄の)寝坊だ。
日が登ると同時に僕は目を覚ました。うっすらと瞼を開けて、しばし茫然とする。布団に籠る心地好い熱を裸体に刷り込む。
隣には兄が潜っていた。穏やかな寝息を立てている。
(悪夢を見なかったようですね)
気持ち良さそうな寝顔は僕を殊更幸せにしてくれる。眺めているうちに起こす気も失せて、二度寝に努めてしまった。「二人とも非番だから良いでしょう」と惰性を貪る。
小夜は居ない。昨晩、今剣に誘われそちらでお泊りした。小夜は察しが良い。兄と僕を二人残した夜に何が起こるか。知っているから、寝坊に気づいても近付かない。
次に目を覚ますと昼四つ時だった。気だるい体を奮い立たせて腰を上げる。身なりを簡単に整えた。
「兄さまおはようございます。朝です」
「寝過ぎましたね・・」
「もう昼四つです」
枕に顔を埋める兄を柔らかく強請る。うっすらと瞳が開いて、淡い色の睫毛を瞬かせる。
「朝餉を持ってきますね。それまでに布団を片して置いてください」
片手を挙げて「分かりました」と兄は言う。手が力なく落ちて布団を叩いた。起床にまだまだ時間がかかりそうだ。
僕は部屋を出て、台所へ朝食の残りを預かりに出た。
台所の長机には、この時間になると握り飯をいくつも並べた大皿が決まって置かれている。
寝坊した者が食べて良し、小腹が空いた者が摘まんでも良し。運が良ければ、残った味噌汁にも預かれる。
今日は残念ながら、お味噌汁が残っていなかった。早くに干されてしまったようだ。大きな鍋も綺麗に洗われている。
僕は皿におにぎり盛る。戸棚の中に余っていた漬物を見つけて、それも頂く。茄子漬けは歌仙の手製だ。僕はこれが好きだ。目の前に出されればすぐに食い付く。だから今もはしたなく摘まむ。料理上手な燭台切りより、糠床の世話に歌仙は絶大な才能が有る。
「こんな時間に朝餉とは、大層な身分だな。貴様もその兄も」
背中から嫌味を飛ばされた。僕が振り返る前に横切り、蛇口をひねる。コップを取って水を注ぐ。
へし切りだった。一人分にしては多い量の握り飯を見て、多方察したのだろう。
「全て、身をやつして働いて下さる貴方のお陰ですよ」
僕は取り合わない。適当に身を立てておいてやる。刺々しい物言いも癪に障りはしない。これでも道端で帽子を脱いで会釈する、敬意のこもった挨拶だ。
「・・そのお陰で兄の世話が出来て有り難いと思え。魔王の酔狂を写したお前には、まあ、そのくらいしかできんか」
へし切は僕と兄の姦淫を酔狂の果ての戯れ言と蔑む。「好奇心で手を出したのだろう、菓子を摘む安さで兄を汚したのだろう」更に僕を詰った。
(今日は一段と執拗な)
塩梅の良い茄子漬けが途端に不味くなる。
いつもならば一言交わしてへし切も踵を返したに違いない。僕も「ご心配ありがとうございます。僕ら兄弟のことなので、貴方はお気にならずに」と素知らぬ顔で言ってのけた。ただ、寝起きのおぼろげな思考のせいか。はたまた幸せな心地を台無しにされた腹いせか。口が上手く繕えなかった。
「へし切、僕に当たっても主は当分貴方を近従にしませんよ」
へし切は近頃、近従勤めを外されている。戦も遠征も禁止。畑仕事も馬当番にも手を出してはいけない。与えられたのは休養のみ。労働超過を好むへし切の制裁だった。
主からの有難い心配りも、へし切にとっては屈辱でしかない。いくら休養が主命と言えども、仕事を生きる糧にする彼が悠長に構えられるはずもなく。へし切りにとって、暇は見放された末の地獄。牢に閉じ込められるようなものだ。
我儘に鬱積を溜め込んでいる。苛立ちを抱える顔色を見れば、察するに容易い。
悪く的を得てしまったらしい。しかも、奥深くに矢尻が刺さった。
へし切の拳が飛んできた。僕は反射的に交わし、よーく狙って持っていた皿をへし切に投げつけていた。手が、身を守るための手段として、僕の意に反して動いたのだ。
握り飯がへし切の顔を優しく包む。勢いを失った皿が落ちる。米粒を頭にまで散らしたへし切の情けのない面が現れる。そのまま表へ出れば、スズメが喜んで突いてくれるであろう。
「ああ、勿体ない」
僕は慌ててしゃがむ。潰れた米粒一つ一つに謝り、拾う。食べ物は粗末にしないと決めていたのだ。
途端、胸ぐらを掴まれた。無理やり視線をへし切りと合わさせられる。へし切りは酷く疲れた顔をしていて、今にも死んでしまいそうだった。しかし、瞳は憤りでゆらゆら揺れている。
「・・・義元左文字、許さんぞ」
「・・貴方にだけは、その名で呼ばれたくない」
拳を振り上げどったんばたんと騒いでいると、昼餉の用意に来た薬研と燭台切りに見つかり、僕は寝起きの兄に引きわたされ、後は今に至る流れとなった。
刀は刀らしく暴力に訴えただけで、何一つ間違いを犯しいていない。互いに加減具合は心得ている。へし切も痣を作ったものの、折れてはいない。現状を維持している。
「殴られたのは僕も同じです。先に手を出して来たのは、へし切なんですよ」
ほら、と襟元をくつろげる。右胸に青紫の痣が広がっていた。皮膚の下に血が這い広がっている。まるで蝶が羽を伸ばして休んでいるよう。二匹目の蝶に居つわられては僕も面白くない。
(兄さまに叱って貰えるなら、痣くらい安いものですが)
甘い癖を覚えてしまいそうだ。
「他の者と波風を立てぬのに、へし切長谷部だけはダメなのですか」
兄が目頭を抑えている。一刻も費やした説教も、叱られる喜びに満ちる僕に効かないと気付き始めたのか。
「・・鳥は飛び方を教わってもいないのに、時がくれば自然と飛び立つでしょう?僕とへし切の仲はそれと同じなんですよ」
「自然の摂理と言いたいのですか?」
「決められた仲なんです。初めて顔を合わせた時も碌なものでなかった」
兄が首を傾げる。自分が降りる前までの話に興味はあるらしい。
実も蓋もない関係を兄に分かって貰えるならと、僕は語りだす。
へし切が降りてきた日、僕はちょうど濡れ縁に座っていた。暖かい日差しの元、さやえんどうのさやを摘まんでは剥いてを繰り返す。確かその日の夕餉は肉じゃがだった。小夜が一緒懸命剥いたじゃがいもに味が染みて美味しかった。
「お前は、ここに仕えている者か?」
「はあ」
上から声をかけられ、顔を上げた。そこにいた男は「俺はへし切長谷部という」と名乗る。
「新しい刀ですか?」
僕は手を休めず訪ねた。主が鍛刀好きで、次から次へと新しい刀が来る。新顔を拝む機会も多く、よほど個性的な出で立ちでない限り驚かない。
当時の僕はへし切の名を知らなかった。織田に居た時は魔王の趣味で刀が積まれるように並んでいた。下げ渡される刀も多く、いちいち名など覚えていられない。連れてこられたと思ったら、いつの間にか居なくなっている方が多かった。
「すまないが、屋敷を案内してもらえないだろうか。主に近従に頼れと言われたのだが、見当たらなくてな」
「えぇ、いいですけど」
今日の近従は短刀の子だ。鍛刀部屋に籠る主の相手に飽きて、どこかへ遊びに行ってしまったのだろう。横着な主にも慣れてきたころで、尻拭いしてやらねばならないと人の良い僕は腰を上げる。
へし切りは僕の格好から、下仕えと勘違いしたらしい。内着で食事の下処理をしている、それが剣も握りなさそうな優男であれば誤解しても仕方ない。
すぐに同じ刀剣と分かると思っていたら、僕は名乗りもしなかった。下仕えに間違えられ、少し不愉快で驚かしてやろうと僕の酔狂が芽を出したのかもしれない。
その意に反して、名も明かぬまま褥の中にまで流れ込めてしまったものだから。僕の方が驚いてしまった。チョロすぎる。
事が終わり、気だるさの中へし切りが尋ねた。
「ここに、義元左文字は来ているか」
ここでは呼ばれない名を耳にして、「僕を知っている?」と戸惑いつつ、「はい」と何に気なしに答える。灯りのない部屋ではへし切の表情がよめない。
「一日ここで過ごしたが、見当たらなかった」
「彼がどうかしたのですか?」
「俺は、奴を殴りたい理由があってな。主にそれを打ち明けたら何が有ろうとも、手を出すなとの主命があった」
物騒だ、とは思った。怨まれる由縁が思い当たらない。織田に捕らわれて以降ほぼ室内飼いで、戦に碌に出されていないから殺った殺られたの恨みではないだろう。籠の中の無防備な鳥に牙を向けるなんて、大した玉の男ではないとだけ分かる。
(久々に寝る男を誤りました)
もっと腹の座っている男かと誤解していた。すっかり冷めてしまった僕は、掌の爪先をじいとみていた。
「主命を守りたいが、果たして守れるだろうか」
「はあ」
生返事しかできない。この男は降りて早々大変な心配事を抱えているよう。だが、それは、もう、いろいろと遅いのではないか。僕は口の中で笑った。
「殴ってしまえば、良いのでは」
殴りたい訳も尋ねず、背中をそっと押しておいた。どうせ、下らない因縁だろうと高を括る。
それからも二三『義元左文字』について聞かれた。僕は曖昧に濁す。あまりの執拗さに、「その男の腹の具合まで貴方はもう知っていますよ」と教えてやりたかった。
暫くして、へし切が寝付いた。僕は褥から這い出る。朝日がうっすら昇り、山際が明るい。
「戦場に向かいましょうか」
着物を整えて、部屋を出る。私室に帰り、一足早く戦の準備に取り掛かった。へし切とは今日隊を組んで出陣する。嫌でも会えよう。
そしてへし切は初となる小規模の出陣で、彼の心配通り、早々に主命に逆らってしまうのだ。
「宗三左文字といいます。昔は義元左文字とも呼ばれていました」
隊が集まった所で、僕はへし切に頭を垂れた。何も知らない風を装い、戦装束で身を固め、「宗三」を名乗ってやった。
夜を共にした男が、刀を持って立っている。戦に出向くと言う。状況を理解したへし切は顔を青くして、次に顔を赤くした。目を吊り上げて。唇を噛み締めて。僕を殴った。
「手を出さない主命はどうしたんですか?ああ、もう遅いですね」
たった一度で二度主命に逆らったへし切が哀れで、僕は今度こそ笑ってやった。
それからへし切は主命に背いた己を恥じて、恥じて。贖うように、仕事に取り憑かれた。
お茶請け程度で薬研にそれを話したら、「へし切も、宗三の酔狂に狂わされて運が悪かったな」と腹から声を出して笑った。僕も綺麗に笑んで、静かに頷いた。





私室を追い出された。全てを隠さず打ち明けたご褒美は、兄の鬼の形相だった。
「戦から帰った後また寝たし、そこまで仲が悪くないんですよ。僕ら」泣けなしに繕ったのが、兄の癪に障ったのかもしれない。
分かっている。僕の好奇心でへし切が罪悪感に囚われてしまったこと。
「全て謝って来なさい」と言われれば、僕は逆らえない。僕は兄に嫌われたくないから、従順な飼い犬にもなれる。
僕はへし切の部屋へ臆せずも入った。私室ほど馴染みはないけれど、勝手知っている場所だ。
畳みには置き場のない書物と書類が積まれている。好んで主の近従を務めるから、仕事を持ち帰えってしまうのだろう。大切であろうそれを踏み越えて、奥へ潜り込む。
へし切は大人しく猪口を傾けていた。僕は声もかけず、薬箱から隠してある煙管を取り出す。兄が煙を好まないから普段は吸わないようにしている。へし切は固い癖に好事家で西洋などの変わった珍品も集めている。
「何様だ」
「謝るフリをしにきました」
刻みタバコを丸めて火皿に入れる。火をくれませんか、と尋ねる。舌打ちをしたあと、へし切がマッチを手に取る。擦って、灯す。
僕があまり火を好きでないのを、彼は重々承知してくれている。赤くゆらゆら揺れる炎を瞳に写して、抱きしめられるような懐かしさと身を焦がす痛みに泣きたくなる。
(甘い男だから、嫌いになれないんですよねぇ)
座布団を取り寄せ座る。ゆっくり吸って、舌で煙を転がす。
「謝る気はないんだな」
「貴方もでしょう?」
僕はそもそも悪いと思っていない。へし切も同様だ。罪の当てつけは不毛。
「ここに来なければ、兄さまに許して貰えないから。ちょっと時間を潰させてくださいね」
「兄の言いなりか」嫌な顔を見せる。
「貴方にとって主命みたいなものです」
どちからが重いのか、比べてみなければ面白いだろう。
へし切は酒を嗜んで、僕は煙を吹かせて遊ぶ。時には酒を舐めさせてもらう。九州独特の強い辛味がある酒だ。弱った体には優しくないだろう。
無言のまま、虚無の時を共有する。それに身を任せたまま、物思いにふける。
今になって思えば、下仕えの振りをした僕は怖かったのかもしれない。
へし切を見た時、「魔王が来た。若い魔王が」と胸がざわついた。織田の刀であったことは、薄らと感づいていた筈なのだ。
魔王の持ち手だった剣は、何かと魔王の影が残っている節が有る。他の主に移って薄れてしまう性質もあるが、底に淀んでいる。
僕には魔王の酔狂さが、薬研には身にそぐわない豪胆さと優しさが、へし切には――。
口に出すのが恥ずかしくなって辞めた。嫌いな魔王を褒めてしまうことになる。
結局、互いに魔王の影を見つけてしまっているから、目が放せないのだ。遠く離れればそれが目に余って癪に障る。同じ場に居れば安心して爪を隠す。
つっとへし切の視線と僕の視線が綺麗にかち合う。へし切りも同じように僕に魔王の影を見ていたのか。似た者同士。
「・・煙たい。やめろ」場を濁す、わざとらしい咳払い。
「すみませんでした」
僕は煙管をへし切の口へ当てる。かりっとぶつかる。へし切が煙管を嫌がって噛もうとしない。僕は指を唇に押し当てて従わせる。
へし切が僕の手を触って遮る。僕は意地悪を辞めてやった。あまりにも顔色が良くない。これではじゃれ合う気にもならなかった。
「貴方は休んだ方がよい。ろくに眠れていないのでしょう?」
「分かるのか」
「だいたい、顔を見れば分かります。兄もよく、寝れずに顔色を悪くしていますから」
だから兄が気持ちよさそうに眠っていると、邪魔が出来ないのだ。僕に出来る手一杯は、暗く平穏な底に居させてあげるくらい。
僕は布団を押し入れから運び出す。手際良く引いて、シーツをかけた。床を整えたものの、へし切は休もうとしない。僕が甲斐甲斐しく寝床を用意するから驚いたのだろう。
「いらっしゃいませんか」
布団を捲って誘う。はっとへし切は我に帰る。気恥ずかしそうに口をへの字に曲げて、のこのこやってくる。
僕の前に胡坐をかいて座る。慣れた手つきで、僕の頬に触れてきた。
「へし切、落ち着いてください」
まあまあまあと宥めながら、僕はへし切の手を下げさせる。肩を押して横にならせた。布団を肩まで掛けてやる。その隣に僕は頬杖をついて横になる。布団の上からぽんぽんと小刻み良く胸のあたりをたたいてやる。
「・・・?」
へし切が釈然としている。どうやら『期待していた事』と違うらしい。
「こうやって、いつも小夜くんを寝かしつけるんですよ」
「なっ」
子どもと同等の扱いを受けて、流石に矜持が傷ついたか。亀のように動かなくなってしまった。
へし切りが頭まで布団を被って潜り込む。こちらに背を向けて、丸まる。布団の山が出来た。
「もう亀のまま籠っていればいいのに」思いの外、初な一面に楽しくなってしまう。
褥を共にして、交わりはなくとも人肌で体を温めてやればよく眠れる。なかなか眠らない兄弟を二人も持っているから、僕は寝かしつけ方を心得てはいた。きっとへし切もそれを求めている。
昼間酷い事を言われなければ、僕は今頃褥に潜り込んで肌を預けていただろう。口の災いは損の元。
それでも可哀想だからと、僅かながらに片足を布団に忍ばせて絡めてやる。追い払われない。そのまま温めてくれるらしい。悪戯に親指で肌を撫でると蹴られる。
「・・確かに、昼間貴方が僕に言った通り、僕はあの魔王の酔狂だ。けれど、あの魔王に似てこれでも惚れ込んだ相手には一途なんですよ」
へし切の矜持に気配る。褥に入らない、自分に都合の良い言い訳も並べた。
「…俺もだ」なんて、可愛い囀りは聞こえないふり。
手慰みに散らばった書類を寝転んだまま読んだ。今夜天高く満月が昇っている。月明かりで明りを灯さずとも文字が追えた。
(兄さまには、僕とへし切の不毛な仲は分からないだろうな)
本の虫も飽きた頃、僕は昼間の兄との対話を振り返った。
結局、僕らの仲について兄から理解を得られなかった。互いに悪意はなくとも、どうしても歪み合ってしまう仲もある。時が邪魔をしたり、立場が噛み合わなかったり、虫の居所が悪かったり。言い訳は様々。
いがみ合う事でしか上手く連れ添えないのだ。嫌いでもないのに。だから殴り合おうとも、恨まず憎まずケロリとしていられる。
繕わず全てを語った後、慕う相手に首を傾げられては、ちょっぴり淋しい。
添い寝するうちに僕も眠気に誘われる。開いていた書物を投げる。
すると、それを見計らったように布団から手がぬっと伸びてきた。僕の腕を掴む。なんて稚拙で率直な嘆願か。つい、兄以外の大人を可愛らしいと錯覚してしまう。
(僕も甘い男だ)
誘われるまま潜り込む。熱をたっぷり吸った布団は温かい。
温かい暗闇の中なら素直になれる。僕らはいっそう強く、二本の足を絡ませた。
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