「・・・・・・宗三左文字と言います。貴方も、天下人の象徴を侍らせたいのですか・・・・・?」
研き上がったばかりの真っ新な刃に、桃色の投身が写った。審神者が降ろした付喪神、宗三左文字が綬肉し落とした影だ。不健康な白い肌を桃色の袈裟で申し分程度覆っている。女にしては固く、男にしてはたおやかな刀剣だった。
睫毛がぱしぱしと瞬く。色の揃っていない目が、揺れる。助けを求めるように、眼前にいる者へ問う。
「・・・?ここはどこでしょうか?僕は、一体?」
宗三の戸惑いは想像に容易い。薬研も同じ体験を、おそらくした。それ経て現世に降りてきた。
冷たい鉄を枕に眠っていたら、前触れもなく赤色に刺される。微温い赤だ。盛夏の日差しほど苛烈でなく、春に上る陽炎ほど微温くもない。
薬研はそれを眺めていた。体を持ち合わせて居なかったが、例えるなら「視る」に近い。
赤が揺蕩う。次第に一点に集まり群れる。ぐにぐにとした不気味な拙い玉が出来上がる。盛り上がり、波打ち、薬研にぶつけられる。
水浴びなど、可愛らしい量でない。しとどに赤が溢れ濡らす。赤がこびりつき、這う。
這うに拠り所などない。互いが互いを頼りに這って奔放に管を成す。管が重なり渦を巻き、薬研を包む。赤々とした巨大な塊が出来る。それは熟れた果実のようだ。
赤の中は、存外心地がよい。外からゆらゆら優しく揺さぶられる。いきなりの出来事に疲れ果てていた。とろとろ瞼が落ちる。眠りたい。眠るって何だろう。抱いた欲に疑問を見出だした途端、内側が窮屈になる。
耐えかねて、手を伸ばす。指が倒れる。何も掴めない。手は伸び、モノを掴む為にあるとここで悟る。挙動一つ一つがもどかしくなり、瞼を持ち上げる。
陽の目を浴びた時、人として形成された自己に気づく。次に、口が動く。操られるように喉から言葉が抜け出る。審神者へ自身へ向けて、一字一句名をなぞる。
後は茫然とする。降りかかった状況を飲み込めない。審神者から降ろされた経緯を聞き、そこで初めて、己が稀有な体験を得たと知る。
あの心地の良い紅い空間を、母親だけが子の為だけに持てる子宮に似た何かだと、薬研は考えている。
「つまり、歴史改変を企む輩と戦うために、僕は降ろされたと」
ふむふむと宗三が相槌を打つ。耳を傾けているものの、まだ視点が定まっていない。ぼやりしている。
目に飛び込んでくる色彩。鼓膜を打つ溢れた音色。肌を包む澄んだ空気。体目掛けて一杯に捩じ込まれる感性。
初めての一切に、稼働したての脳が馴染めていない。出来る精一杯は、自身の居所を掴むために身を留め、与えられる情報と現実を体に擦り込む。
全て薬研と赤子の刀剣が直面する軌跡だ。戸惑いながらも現実に向き合う姿勢は懐かしく、全ての始まりに胸が踊る。
寒い冬のこの日。二度目のこれを薬研が拝めたのは、燭台切りのお陰だ。近従だった彼が風邪を拗らせた。暇をもて余していた薬研は番を変わってやった。近従でなければ、貴重な場にお目にかかれない。
露濡れた桃色の艶やかな刀身が鞘から抜かれた時、薬研はこの刀を「宗三左文字」ではないかと期待した。勘が「この美しい刀は宗三左文字でなければならない」と囁いた。
織田の城で、宗三とは(その頃人の身は持ち合わせていなかったけれど)共に過ごした。馴染みある刀の来訪は嬉しい。
逸る気持ちを抑えて薬研は耐えた。困惑している間に話しかけても、悪戯に惑わすだけだ。腰を下ろしたまま機会を伺う。
審神者が一通り喋り終える。急須を持ち上げ、湯飲みに注ぐ。茶を飲み干す隙を狙って、薬研は口を挟んだ。
「よぉ、宗三左文字。俺っちは薬研藤四朗。同じ刀剣だ。よろしくな」
わざわざ宗三の近くまで寄った。中腰になって宗三が驚かないよう真正面から向き合う。できるだけ表情を緩め、親しみを込める。
「薬研・・?薬研藤四朗?」
宗三が表情を固くする。ぬっと身と手を乗り出す。薬研の体をぺたぺたと無遠慮に触る。
細い指先が頬や首筋を掠めて擽ったい。大人しいかと思いきや人懐こい。両手で顔を掴まれ、強い力で引き寄せられる。珍品の陶磁器を鑑定するかのような、慎重な眼差しだ。
「俺っちの顔がそんなに珍しいか?世の中には怖い顔も面白い顔もあるのに、俺っちの顔で驚いてちゃあ、身が持たないぞ」
勢いの衰えない宗三を冗談で和ませる。開かれた瞳に吸い込まれそうだ。近い。近い。鼻先が当たる。そして、痛い。頬を強く掴み過ぎだ。体を得たばかりで、力の加減が分からないのだろう。
薬研がここまで他人に距離を許すのは始めてた。もし宗三が懐刀を隠し持っていたら。呆気なく刺される恐い間合いだ。宗三が綺麗どころで、両手を封じてまで薬研を捕まえるから平気なのだろう。なんだが耳の裏が熱くなってくる。
「珍しいも何も。貴方、有ったんですね」
「・・・有ったてのは?」
宗三の言葉運びに、旧友を懐かしむ情緒はない。むしろ迷い子をようやく見つけて胸を撫で下ろす親と似ている。
「本能寺の後、貴方を見かけなかったから。なんだ、掘り起こされていたんですね」
「・・・」
「貴方が燃えたなんて、僕は悪い夢をみていたんだ」
刀身の有無について、薬研は答えられなかった。紡ぐ言葉を失っていた。身内の事のように喜ぶ宗三に、あろうことか見惚れていた。
(兄貴ってのは、居ればこんなもんなのか)
薬研は同じ銘の兄弟が多い。多くは弟だ。兄も一応三人いる。一人は未だ会えず、どんな性質か分からない。残り二人は記憶が焼け落ち奔放で、身の落ち着け所を誤り馬糞を投げる始末。無責任に放っておけず、手が掛かる弟が一人増えようが二人増えようが変わらないと腹を括り、まとめて世話を焼いている。
宗三にかけられた情心が嬉しかった。
薬研は他の短刀達より一目置かれている。小さな見目に似合わない肝っ玉のせいだ。大人の成りをした刀達は、それに充てられ驚く。「なんだこのガキ。ただ者ではないぞ」と。
山中で震えていた仔犬を見かねて抱き上げたら、実は痩せこけた小熊と知って腰を抜かす。落ち着きを取り戻すと「小熊だから大丈夫」と根拠もなく放免する。
大丈夫かどうかは、薬研の気持ちを聞いてから判断して欲しい。大人の勝手な早とちりのせいで、熱心に身を案じられたことなどない。面白くないが、薬研は文句を垂れなかった。仔犬の利を分かったところで、小熊は小熊の歩みしかできない。
いつも弟達へ与えているそれが、廻り廻って薬研に帰ってきているようで。情を厚く与えてくれた宗三に、軽率にも暖めていた兄の像を落としてしまった。自身の有無の大切な問題に頓着する集中を欠く。それだけ、宗三の笑みが眩しかった。
「まぁ、なんだ。改めてよろしくな。宗三。俺がここでの生活を教えてやるよ」
細い指を優しくほどく。薬研は耳の裏を掻いた。そして、審神者に訊ねる。
「いいよな、大将」
審神者が頷く。
決め事で、近従にはその日降りた刀の面倒をみる責務が伴う。
責務と言葉は大袈裟だが、簡単に暮らしと実戦を教えるだけだ。一緒に本丸を回って、戦に出す者もいる。どこで受け持った刀剣男子の手を放すかは、個人の裁量にまかされた。
薬研は抱える弟の数を理由に今まで放免にされていた。しかし、目をかけていた弟達も一人立ちした今はもう手空き。弟の次は大人の成りをした刀の世話、とため息を付きたくもなる。根っから世話焼きの薬研は、厭わない。
「まずは本丸の案内からだ。立てるか?」
宗三の手をとる。立ち上がらせた。
「えっ!?」
一歩足を差し出した時、力を入れるバランスを間違えて宗三が前にすっ転ぶ。綺麗に一回転して、畳に膝をついて止まった。審神者はこれに慣れていて、あらかじめ盆を隅っこに寄せていた。
「・・・?」
「こりゃあ、綺麗な着地だ。見事だぞ」
宗三は目を白黒させながら身を起こす。身に何が降りかかったか分からないと、薬研に視線を寄越す。転びながらも敵を想定して刀を掴んだ所を見ると、気骨はあるだろう。薬研は隠さず笑った。情けなくすっ転ぶ姿を見れるから、近従を止められないのだ。
「最初は誰もが転ぶんだよ。俺もすっころんで湯呑を倒した。な、大将」
「襖に体の大きさと同じ穴を開けたが。頭打って覚えてないかな?」
「それは襖の向こうに、敵の気配がしたからだって言ったろ」
懐かしい話を自ら掘り返す。審神者は肩を潜めた。これも授肉した者への洗礼だ。何事も最初は上手くいかないと、体で教えてやる。
「容易く折れてくれるなよ」と桃色の薄い背に、語りかけた。
「まずは、生活に慣れろ。日が昇れば目を覚まして、落ちれば眠ればいい」
直ぐに戦に立てると、薬研は教えなかった。生活についてのいろはを語った。順応なものは次の日にでも戦場に立出て首を狩る。首を狩れる者は体感が良い。体感が良い者は人の生活を容易く物に出来た。
宗三の身のこなしから、体に慣れるまで手間がかると薬研は判断した。兄弟を育てた事で培った目利きだ。「戦の経験はそんなに」と宗三も白状したから、間違いはない。
同じ性質が五虎退だった。体の扱いと奔放な虎の世話に四苦八苦して、最初の頃は覚束なかった。戦場でおどおどしていたものの、今では達者に敵の急所に潜り込む。経験を積めば、問題はない。
問題があるとすれば、宗三の本丸での挙動だ。その背は余りにも、頼りない。
宗三は台所に立っていた。包丁を握って、まな板の上のじゃがいもと向き合っている。
「薬研、じゃがいもは一口大に切って正しいですか?」
人参の皮を剥く薬研に問う。肉じゃがを夕食の献立に上げるのは四度目だ。包丁の使い方も、好きな醤油の濃さも宗三は覚えている。
「宗三がしたいようにすればいい」
「本当に僕の好きにして、正しいのでしょうか」
いちいち許可を求める宗三の癖に、薬研は頭が痛くなった。宗三は「正しさ」を常に気にかけている。宗三が欲しているのは、善悪の「正義」でない。例えば右手には箸を持ち、左手にはお茶碗をもつ食事の作法だとか。畑に水をやるとき、葉っぱではなく根元の土にかけてやるだとか。些細な間違いを恐れて、いつも薬研に問う。正しさに脅されながら生きている。
「じゃがいもの大きさなんざ、誰も拘ってないだろ。上げた首級の大・小なら、話は別だが」
もっと肩の力を抜くように促す。仔細に拘りすぎると身動きがとれなくなる。
「分かってはいるんですが・・・」
ようやくじゃがいもに刃を当てた。煮崩れも考え、大きめに切る。
宗三の心配は止まない。薬研は嫌な予感がした。山をはってみる。
「何か言われたろ?」
「分かりますか」
「まあな」
トン、トン、と刻みの良い音に宗三が言葉を混ぜる。
「燭台切りに言われたんです。『君は常識を知らないから、僕が正しいことを教えてあげよう』って」
「あの馬鹿」と薬研は舌打ちした。
燭台切りは底のない自信家だ。自分は正しいと信じれる部類の刀だ。「格好よく」の彼の口癖が、全て物語っている。
自信を内に留めて置けば良い。だが、燭台切りは自身の正しさを他者に与える。分け与えることで、他者も幸せになると無垢に信じている。審神者に同等の格好良さを求めてしまうのも、お節介の一環だ。
本人に悪気はない。格好良さの手本となるべく、日ごろ意識して細々と動く。それを「世話き」と好ましく甘える者も居る。薬研も燭台切りの長所として受け止めていた。裏目に出ない限りは。
燭台切りが宗三に声をかけたのも、もちろん、彼の自信を分けて一緒に幸せになろうとしたからだ。嫌みはない。生活になかなか馴染めず、部屋に一人引きこもる暗さを見かねたのだろう。
ただ、選んだ言葉が馬鹿に素直だった。それを馬鹿真面目に受けた宗三も、無垢で悪い。目の届かない所で、大きな巻き込み事故が起こっていた。
「丁寧にお断りしましたけど」
「断った癖に、宗三は言われたことに納得してんだな」
「ええ。僕はあまりにも籠の生活が永すぎましたから。空が高いなんて忘れる程に」
あっさり固定する。
「彼は伊達の家に渡り、戦に立ち、明らかに僕より人の生活に触れていた。本丸にも早く降りていましたよね。僕が特殊であって彼の方が人並みと、客観的に捉えるのが普通でしょう」
垂れ落ちた髪を耳にかけ直す。薄い手が瞼に影をつくる。
「僕は考えを持っていても、それが皆の考えと違う可能性が高い。我を通してもいいのか、料理をする作業の中でも分からない。だから、段々と外に居るのが億劫になるんです」
芽を落とし忘れたじゃがいもを見つけて、刃を立てる。削いだ。
「外に憧れはしますが、籠の中にいた方が楽に思えて」
それで、対面する全ての物事に及び腰なのか。好きで部屋に籠っていた訳でない。外に焦がれる気持ちはちゃんとある。
「宗三はよくやってるぜ。苦手な料理も最初に比べたら上手くなった」
「まな板を真っ赤な血で染める真似は二度としたくありません」
宗三が口を拗ねらせる。あれほど野菜を支える手は猫のように丸めなさいと教えたのに、宗三は玉ねぎと指を二本切り落とした。
「薬研、指が落ちたのですが」と眉ひとつ動かさず事後報告するものだから、薬研の方が肝が冷えた。包丁の扱いに慣れた今となっては想像できない。
「もっと自分に自信を持って良いと思うぜ」
背中を叩いて押してやる。
「その様子じゃ、今まで溜め込んでたこともあるだろ?何がしたい?宗三はどうしたい?」
「僕は、そうですね」
しばし黙って悩む。切り終わったじゃがいもを、まな板に滑らせ鍋に入れていく。
「戦に出てみたい、ですかね」
「箱入り娘みたいな生活してた奴が、戦か!まあ、そうだよな!」
本丸の生活に慣れることを優先して、遠征にすら出していなかった。戦う為に降ろされたのであれば、戦場立ちたいに決まっている。
しかし、一番初めにやってみたいことが、戦に出て血を吸いたいだなんて。いや、刀の本分なのだから、何も間違っていない。今まで塞ぎこんでいた男が腹に抱えるにしては物騒な望みだと思ったのだ。愉快になって腹から声を出して笑う。
「それじゃ、俺と手合わせだ。一人立ちするまで、責任持って面倒みてやるからな」
もう寂しい思いはさせたくない。薬研は吐き出した言葉の重さを、自身の胸に刷り込ませる。宗三の世話に、本腰を入れようと決めた。
「頼りにしてますよ」
「手始めにこの人参を成敗してくれ」
剥き終えた人参をまな板の上に乗せる。宗三の背筋がすっと伸びた。鬱々しくない姿勢もできるじゃないか。宗三は人参をやっつける傍ら、他にやりたい事を三つ四つ続ける。
「弟と、小夜くんと話してみたいですね」
薬研は気がつく。照れる宗三の緩やかな笑みは一等特別だと。









薬研はこの日、出陣だった。第一隊だ。長篠へ遡る。
暖かい日差しを浴びながら、門で他の隊員を待つ。戦支度が整い集合場所に来た。少し早かったようで、誰も来ていない。
空をのんびり羽ばたく蝶を目で追って暇を慰める。蝶が門を潜り、畑の方へ飛んでいった。蝶と入れ替わりで、屋敷から見慣れない姿の大人と子どもが出てくる。
「よぉ、今ら街に降りるのか」
声をかけると、宗三が「ええ」と相打つ。
宗三は髪をすっきり結い上げ、桃色の髪を目立たないように纏めてた。格子柄の着物に紺色の羽織を合わせている。着るもの一つで、背格好の良い粋な男に変わるから不思議だ。
隣の小夜はかまわぬ柄の着物に袖を通している。笠は余程気に入りなのか、しっかりと首にかけていた。笠があれば身の丈も大きくなる。迷子対策を兼ねているのだろう。
雑多に馴染める地味なよそ行きの服装だ。ひと目で、街へ降りるのだと分かった。
「小夜くんがお小遣いをようやく貯めたので買い物へ。僕も連れて行って貰うんですよ」
宗三が繋いでいる小夜の手を引っ張る。小夜は薬研と目を合わせず、控えめに顎を引いた。
屋敷は近代の横浜に通じている。幕末の乱を駆け抜け、薩摩と長州が政権へ本格的に乗り出した時勢だ。
武器の主流が刀から大砲変わった。刀剣たちの主の息も消え失せた時代が、生活の場に好ましいと政府は判断したのだろう。
また、外交貿易の中心地横浜であれば、毛色が違っても溶け込みやすい。外人など開国した横浜の地では珍しくない。人の色も食事の匂いも服の形さえも、ごったに共存できる界隈へ刀剣男子が混ざって誰が気づこうか。
審神者の許可さえあれば、非番の日に街へ降りられる。刀剣男子へ用意された息抜きの場だ。ただし、短刀は大人の付き添いが必要。
「お、小夜何を買うんだ?」
「・・・秘密」
「おや、僕には教えてくれたのに、薬研には秘密ですか」
恥ずかしがる小夜を眺めて宗三はにこにこいる。
(宗三は垢抜けたな)
目を細めた。人の生活に宗三は慣れた。戦で誉れをとるようになった。籠の中の安寧を好む宗三は、本丸から消えていた。
宗三を立派に独り立ちさせた薬研としては、感慨深い。
すっかり兄らしく振る舞えるようにもなった。小夜を可愛がり、気遣って時には叱る余裕も生まれた。そして、よく笑っている。宗三が笑うようになった一員は、何も生活に慣れたためだけでない。宗三も、弟になったからだ。
「宗三、小夜。ここで何を?」
二人の兄が現れた。名を江雪左文字。左文字兄弟揃いの袈裟と、細絹の髪をなびかせる。珍しい太刀だ。宗三と同じ切れ長の目をしている。思慮深く、軽はずみな発言はしない。その身色と寡黙さが相まって冷たい印象を受けるが、いつも温かい眼差しで弟二人を見守っている。
「戦に出る兄さまの見送りです」
「街に降りる格好で良く言います」
「私は戦に行かねばならないというのに・・」とごねる。江雪は殊に戦が嫌いだ。出陣の任が下るとなると、出立から七日前に知らさなければ心の整理がつかず本人は出ない。宗三と違った、ある種の引きこもりではある。だが、戦場に経てば腕は百人力。無下にできない存在なのだ。薬研は江雪を「矛盾の塊」と評している。
「兄さま、小夜くんが頼りになる兄さまを見たいと!ね、小夜くん!」
「・・江雪兄さまなら誰にも引けをとらないよ」
江雪を表に引っ張り出すのは、今や宗三と小夜の役目だ。言葉を匠に使って重い腰を上げさせる。今にも本丸へ帰りそうな気を察して、宗三が江雪を盛り立てる。小夜にも同意を求めた。
「薬研、兄さまをよろしくお願いします」
「私が隊長ですが・・・」
宗三が小声で話しかけてくる。それが聞こえてしまったようで、江雪がため息をこぼした。
「・・兄さま」
宗三が江雪の腕を引く。耳元で、何か呟いた。江雪の眉の皺が浅くなる。閉ざされた唇が弧を描いた僅な瞬間を薬研は見逃さない。
第一隊の残りの刀が集まる雑音に邪魔され、何が交わされたのか聞こえなかった。兄弟こそ知り得る話なのか。見せつけられたようで、薬研は面白くない。
「いってきます」
江雪が先頭に立ち、出立した。門の前で、宗三と小夜と集まった留守番組に見送られる。その中に、一期一振や厚藤四郎といった、薬研の兄弟も混じっている。照れくさいと思いながら、それでも嬉しくて手を振り返した。
薬研は江雪の後ろを歩く。高い背を見上げる。
あれが左文字兄弟の雰囲気か。独特の空間に、薬研はついていけない。兄弟にしか生まれない、密な空間が恨めしい。
宗三は小夜の為に兄になり、そして江雪のおかげで弟になれた。守るべき同じ銘を得て、また強くなってしまった。
自分で言葉を選び気後れせず話す。戦も怖がらない。いよいよ距離が遠くなる。
兄弟達の独り立ちは嬉しかった。人の命を預かる任が解かれてほっとした。宗三が巣立った時も、全く同じ感情を抱いた。
なのに、宗三を手放した今が、ものすごく虚しい。暗い穴の中に一人取り残された、虚無がある。
薬研が出来ることと言えば、宗三の愚痴と兄弟の自慢に付き合うだけ。織田の話をしても、良い思い出が無いのか慎ましく黙り込んでしまう。
薬研の目前で、ひらりと袈裟が裏返る。宗三と色違いのそれが堪に触る。江雪がすらりと刀を引き抜いていた。伸びた刀が、敵の左胸を苛烈にさく。そこで我に返った。戦が始まっている。
「薬研!!!」
(あ、)
戦に出て、彼の強さを叩きつけられた。赤い憎しみの色を纏った大太刀が、薬研に穂先を向けていた。現実に打ちのめされる。敵の刃が柄まで通りかかった。
(クソが!)
足掻きに吼えたが、上手く鳴けなかった。目の前がバチッと光る。衝動に意識を奪われる。
また、最初の赤へ向かって落ちた。
薬研は赤い塊の中に漂っていた。最初の場所だ。
再び巡るもどかしさに、膜を破ろうと手を伸ばす。指が赤を掴む。赤子の肌のような温もりに、一瞬気が引ける。肩を振り上げ勢い良く引っ張る。果実のように裂けた赤の隙間から、光が指した。
薬研が眩しさに瞼を持ち上げた時、視界に天井が写った。見慣れた本丸の天井だ。薬研はゆっくり右へ顔を傾ける。
「!!」
激痛が走った。手足の関節がじわじわとした熱で熟れている。悲鳴を上げる喉も潰れ、息を短く吸う。ひゅうっと息が抜けた。拙い笛の音だ。
(喉が抉れて穴が空いても生きてんのか)
刀身が破壊されない限り、肉体は襤褸切れになっても地を這える。付喪神のご都合主義には感謝しなくてはならない。
刀身を専属の職人が手入れしていた。ふと、彼と目が合う。にこりと、薬研に笑いかけた。薬研が手負いになってすぐ隊は本丸へ引き返したのだろう。顔に指す影はまだ明るい。
「薬研、気がつきましたか!」
一期一振の弾む声音が聞こえた。苦悩で歪んだ優しい顔に薬研は覗き込まれる。
「私が見えていますか?」
「ぃ・・」
声がない。指先から伝わる細やかな感覚もないから、腕も失っているのだろう。被された布団の下にある四肢は、散らばっているに違いない。
「無理に動かないでください。今、手入れが始まったばかりです」
安堵が混ざった声音はまだ緊張している。兄弟に手厳しい一期一振が叱ってこないとなると、薬研はよほど重傷らしい。兄に弱った顔をさせてしまい、後ろめたくなる。
「刀身を抜き遅れたのが幸いして、破壊を免れたのですよ」
「悪運が強くてよかった」と頭を撫でてくれた。
薬研は錬度が高い。重症な分、手入れに時間がかかった。職人の腕は確かで、時が流れるにつれて傷も癒える。薬研の腕が繋がった頃、一期一振の許しを得て兄弟達がどっと見舞いに押し寄せた。厚藤四郎には「薬研も怪我するんだな」と失敗を茶化される。乱藤四郎は「薬研の馬鹿!馬鹿!敵に柄まで通されてどうするの!」と鬼の形相で怒った。自身にも兄弟が居て、わけ隔てのない愛情を受けていると改めて知る。
兄弟だけでなく、他の刀もそっと顔を覗かせた。遠慮がちに二・三薬研へ励ましの言葉をかけてくる。揃って肩を撫で下ろし出て行く。人の心とは暖かい。
日が暮れた頃、宗三も訪れた。街から帰ったばかりなのか、着替えていない。薬研が手負いになったと聞いて、飛んできてくれたのだろうか。髪が乱れ解れかかっている。
「一期一振が、ちょうど兄にお礼を言いに来られて。何事かと来てしまいました」
江雪に助けられたなんて、知りたくもなかった。だが、落ち着きのない宗三にお目にかかれて嬉しい。
「具合はよさそうですね」
「大人しく寝転がってたからな」
薬研の喉も塞がり、言葉を取り戻していた。身を起こそうとすると、止められる。
「長居はしませんから」
薬研は途端に萎えた。宗三が兄弟の所へいってしまう。与えられる時間が短か過ぎる。
「俺は、平気だ」
「怪我人が何を言いますか」
薬研はむっとした。
連れない宗三が、腹立たしく思えた。手負いとはいえ薬研が良いと言っている。ずっと座っていて構わない。気を使う仲ではなかっただろう。
授肉した日に転んだ恥を見たのは薬研だけ。小夜と仲良くなりたいと、秘密を打ち明けたのも薬研だ。戦場に初めて立ち、敵を切った感覚に両手を挙げてはしゃいだ宗三を誉めたのも薬研。
薬研しか知り得ない宗三がいる。宗三はそれを、過ごした月日を忘れたとども言うのか。よそよそしい宗三が憎い。
(憎いな。宗三が)
宗三へ抱いた不の感情に薬研は驚く。怒りを表に出さないよう、深呼吸。頭が冷え、整理が出来た。
(憎いんじゃねえな。こりゃ嫉妬だ)
薬研は怒りの答えを見出だす。一人を想って嬉しくなり、寂しくなり、憎くなる。これは人がする、恋だ。
「宗三、待ってくれ」
声を振り絞って宗三を呼び止める。思いついた事を、言わなければと思った。
「宗三左文字が欲しい」
この時本音を言えたら、どんなによかったか。
宗三が別の男に心底惚れぬいている。そっちと多少の男遊びに夢中。それを当人の口から知った薬研も簡単に胸打ちを明かすほど幼くない。
どうすれば、気付いてもらえるか。宗三をあの男から奪えるか。まずは掴まなければと思った。
離れる背を指を加えて見送るのは癪だ。好いた相手を引き込む為に、手はあるのだ。赤い膜を引き裂く感覚で、恐れずに思い切りよく。生のいろを赤の中で知らずのうちに覚えたはずだ。
「?具合がよくありませんか?」
「いいや。ちょっと、寂しくてな。傍にいちゃくれねぇか」
「おや。貴方も子どもらしい所があるんですね」
目元を緩ませる。腹の中で「可愛い」やらとほざいているに違いない。
「一期一振を呼びましょうか?彼なら甘えても、恥ずかしくないでしょう」
「嫌だ。情のない顔を見せたくねえ」
腕すら欠けた無情な姿はとうに見せた。今更何を恥ずかしがる。
「意地っ張りですね」
「可愛いげがあるだろ?」
「・・その正直さに免じて、一晩付き合ってあげますよ。散々、面倒を見てもらいましたし」
「なら、手間が一つや二つ増えても構わねぇよな」
「面倒事は手一杯でお断りしますが」
「手を、繋いじゃくれないか」
「手を?」
「体に繋がったばかりで、どうも冷たくってな」
血が通っていなかった腕は鉄だ。くっついたものの、酷く冷たい。指先の感覚がないくせに、しっかり痛みが伴う。体の一部と主張してくるのだ。
宗三が布団の中に手を入れる。細腕にそっと触った。顔色が「可哀想に」と訴える。
「すまねえな」
薬研は幼い顔が映えるよう、口元を歪ませた。
礼を言うと、宗三が静かに笑った。薬研はその緩やかな顔に何度となく見惚れてきた。
(ようやく、ようやく掴めた)
感覚のない手力を込め、指を絡ませる。宗三が「おや?」と首を傾げる。
油断しきっている腕を、自身の方へ思いきり引いた。宗三の体が傾く。薬研は細身ごと抱き止めた。ようやく手を掴めてこれから、というところで猛烈な睡魔に襲われる。
予定外だ。
手入れ中、どうしても寝付けなかったツケが、大切な場になって襲ってきた。間の悪い。体が欲してしまえば逆らえない。宗三の体が暖かいせいでもある。
「眠い、宗三」
抱き止めた所でこれ以上何をするか、薬研は考えていない。むしろ恋の駆け引きや閨事のいろはに、身の丈同等に明るくなかった。押し倒せば、何か変わると信じていた。誰かの部屋で見かけた春画も、男が女を押し倒してどうにか仲良くやれていた。
頭を宗三の肩に預けた。体を刷り寄せ、懐に潜り込む。宗三の甘い匂いに薬研の脳が溶かされる。
(弱った仔犬のふりするのも、悪くねえな)
この突発的な行動も、幼さからくる甘えで許される。手入れ職人から見れば、弱った薬研が大人の宗三に子どもらしく甘えている微笑ましい絵になっている筈だ。震える仔犬が暖かい腕に抱かれているのだ。邪魔せず見守ってくれ。
「薬研・・??え?」
薄れ行く意識の向こうで、宗三が戸惑っている。薬研は満足していた。宗三に唾くらいはつけてやれた。掴んだ手も放してやらない。握った手のもどかしさの意味を、まだ宗三は知らなくていい。
震える仔犬を繕ったまま、眠った。 目が覚めたら、小熊の歩みで宗三を虎視眈々と狩ろう。
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