血の香りが、どこからともなく漂った。僅かな微香をかぎ取った僕は、慌てて針仕事の手を休める。
本丸に訪れる血の匂いは、出陣した士達の帰還を告げる烽だ。
(ようやく、兄さまが帰ってきた)
早馬で隊の無事と帰還を知らされていたものの、知った所で待ちわびた時間が癒される訳もなく。逸る気持ちを押しとどめ、丁寧に丸留めにした糸を八重歯で噛みきる。小さな針を針立てに強く指し止めた。
一軍が墨俣へ赴いて十日。その隊に兄の江雪も加わった。殺生を嫌う兄が不服と不満を抱えて長く戦場に留まれるか。矢傷を負うよりそちら方が不安の種だった。戦果を確認する限り特上の働きであったから、泣き頼まれた分は立派に務めを果たしたのだろう。
(どんな情けない顔をしているのやら)
仏頂面を更に顰めた兄は想像するに容易い。暫くは「畑にしか出たくありません」と和議を求めるに違いない。次の戦に出るのは一ヶ月かはたまた一年後になるか。機嫌取りが大変だ、と僕は笑う。
一人物思いに更けるほど、僕は兄の帰還が嬉しい。居ない兄の影を繋ぎ止めるのも、そろそろ限界がきていた。
「ご帰還ー!一陣のご帰還ですぞー!」
門から祝咆が聞こえる。玄関口へ急いだ。



無事、帰還を果たした兄は、僕の見こんだ通り機嫌が悪い。無言のまま主に頭を垂れ、無言のまま私室へ引っ込んでしまった。まるで、しっぽを丸め小屋へ逃げる子犬のよう。叱りを受けるどころか、その腕を一番と褒められたのに。
可哀想なほど神経をすり減らした兄を、僕は精一杯労うことにする。
「誉れを頂いたようですね」
「嬉しくありません。戦など、無意味です」
絞った手拭いで顔を拭く。前髪についた血糊が固まり、目に入って痛いのだろう。兄はごしごし強く擦り上げている。
僕は兄の戦装束を解いていく。血糊がべっとりついた袈裟は黒一色。良い絹を使って仕立てたのに、十日ばかりで襤褸切れにされてしまった。苦手な針仕事を頑張った身としては報われない。
息苦しいのか、兄が自ら袂を緩めた。現れた胸板は白い。汗と土埃を纏っているものの、かすり傷一つない。
傷みきった足袋を見れば分かる。出向いた戦場の過酷さを。阿鼻叫喚しか響かない地を、よくも無傷で帰って来たと惚れ惚れしてしまう。
「部屋に荷が増えましたね」
「主が兄さまにと。余程、感謝しているんですよ」
部屋に食べ物と書物が詰まれている。食べ物は兄が好きな霞饅頭。書物は畑仕事に関するイロハが載っている手引書。
主が隊の帰還前に「兄への感謝の品」と称して置いて行った。所謂、ご機嫌取りの品だ。
和睦主義の兄は、戦に出ても苦労しない腕を持っていながら血を嫌う。畑に出て人の営みに溶ける平穏を好む。兄を戦へ動かすには、三年積んだ岩山を崩すより難しい。半ば泣きついて拝んで戦に出したから、主も気を使ったのだろう。
あの主は、愚かにも供物で兄の機嫌をとれると信じている。安直な主様だ。
兄の視線はやはり別の物へ移っていた。おはじきや竹トンボ。あやとりの紐に潰れた紙風船。外国から持ち込んだ『おせろ』の駒が白黒散らばっている。小夜が短刀の子達と使ったおもちゃだ。
「小夜くんがね、暇なときは何かと遊び道具を借りて来てくれるんです」
萎んだ紙風船を取り寄せる。ふうと息を吹き込む。柔らかい紙がくしゅくしゅ音を立てて膨らむ。
「兄さまが、長いあいだ留守にしてしまうから。二人で暇を潰すのも大変でしたよ」
とーんとーんとーん。甲で紙風船を弾く。兄は身動きのないまま、虹色紙を目で追う。
「小夜くんも僕相手では、物足りないのでしょう。兄さまがいないと、やっぱり寂しがる」
「そうでしょうか」
「二人で楽しく遊んでいたのでしょう」くぐもった声に言い当てられる。部屋を片付けておくべきだった、と僕はなまけ癖を悔いた。正直に答えるほど僕は素直でない。ので、声音を変えて取り繕う。
「僕は寂しかった」
紙風船を投げ捨てる。子どものおもちゃより、兄さまがいいと言わんばかりに体重を寄せた。鼻先を胸に充てる。とても男には思えないさらさらとした冷たい肌は久しぶりだ。
兄が僕の耳朶を抓る。幾度も揉んで耳飾りを転がす。
「甘えて良いですか?」
「その気しか、お前はないでしょう。おちおち湯浴にも行けません」
ごねつつも兄の手は僕の腰を引き寄せていた。お手が早い。
(嬉しい癖に)
唇が弧を描いてしまう。天の邪鬼さがとても愛らしい。兄は甘えられて喜んでいるのだ。帰りを待ってくれる人が居てこそ、この人は戦場に立っていられる。
兄は感情を表に出さない。いや、当人は出しているつもりでも、出し切れていないのだ。能面、仏頂面。子ども受けが悪い。並べれば並べるだけ悪口になってしまうけど、これくらいしか欠点がないのだから少しは許されよう。
「その気にさせてくれたのは兄さまなんだから。勿体ない」交う正統な理由を、兄に当て付けた。
兄の素肌は冷えていた。だが、底は高ぶり燻っている。
僕は兄が戦に出る前から、熱を抱えて帰ってくると知っていた。同時にこうして欲しくて、良い子に待ちわびる意地らしさも。
大きな掌に顎を持ち挙げられるまま従う。ようやく許された口付け。兄の唇は、僕と似てうすい。それに首筋を啄まれたり、胸の当たりを擽られると、まるで自分に犯されているような不徳な感覚に囚われる。同じくらいに酔って欲しくって、僕も兄の肌を擽る。
「兄さま、いい?」
肩を小突いて畳に座らせる。腹に股がり、胯間をすりつける。襦袢越しにでも固い熱が分かる。
「早くはありませんか」
下履きの紐を自ら解いた。兄は愛撫の足りなさを、心配してくれる。
「言ったでしょう。僕は『寂しかった』って」
兄の居ない夜に僕がすることなんて。解りきったことを言わせないで欲しい。お伽噺の結末を考えるより簡単じゃないか。
こんな僕への心遣いは嬉しい。けれど他の男に傅かず、指で耐えた僕の貞淑さを兄はもっと褒めるべきだ。体で甘やかせてくれるべきだ。
「おまえは、全く」
先濡れの液を指に絡める。僕の秘肛に宛がう。一本、するりと滑り込ませた。久々に味わう兄の指。ようやく自分以外の指に触れられて、腹が悦びに疼く。それから先を想像すると、甘い果実を摘まんだ時のように口いっぱいに唾液が溢れ喉が潤う。
「ンッ…」
「…指で達する癖がつくと、こちらで満足できなくなると聞きましたが」
兄は指を増やして、中の具合を確かめる。快感を与えるより、探るような指先の動きがもどかしい。
「アッ、ン、まさか」
面白味のない冗談に喉を震わす。指が性器に勝るなんて信じたくない。
唐突に、障子が開く。西陽が畳に散った兄の髪を照らす。それに映った小さな影は、小夜だった。
「…江雪兄さま、お帰り」
「ただいまかえりました」
小夜は一瞬戸惑うも、すんなり事態を受け入れる。髪も解れ、着物など腰ひもにかかっている程度。取っ組み合いの喧嘩には、どう取り繕っても見えない。
「取り組み中だったの」
「ええ。宗三が強請るものですから」
顔色を一つ変えない兄弟のやり取りを前に、不思議な気持ちになる。小夜は僕らの関係について嫌悪もしなければ咎めもしない。
「蛙もトンボも交尾するし、問題ないよ」と初めて交わいが見つかってしまった夜、小夜は僕らを諭した。生き物だからさも当然と言い張る弟の逞しさが、僕は面白くて仕方がなかった。僕らの交わいなんて虫以下だ。
薬研に小夜の賢さを自慢したら、「将来大物だな」と笑ってくれた。
「小夜くん、どうしました」
「宗三兄さま、ううん」
首を振って、さっと手に持っていた何かを背に回す。隠しきれていないそれは、新しい遊び道具だろう。夕方に藤四郎の子から借りてくると言っていたのを、今になって思い出す。この時ばかりは、不甲斐ない兄を許して欲しいと謝った。
「…汚れた着物を貰おうと寄っただけだから」
小夜が血濡れの着物を拾って出て行く。咄嗟に逃げる口実を思い付く小夜は、やっぱり賢い。
去り際に「帰って来たばかりなんだから、ほどほどにしないと」と珍しく小言を残していった。
「末弟の方が、気を使えますね」
じと目が僕の胸に突き刺さる。僕はぷくっと頬をふくらませた。
「ほどほどに、なんて済まさたくないのは兄さまの癖に」
はしたなくも、頬を抓る。体の強い兄は痛がらない。季節外れの蚊に喰われたくらいに偽ってやろうと躍起になる。その罰と言わんばかりに膝から振り落とされた。
「あッ…」
腹に籠っていた熱が引いて、もの寂しい。まだ快楽にちょっぴりも酔えていないのに。兄は怒ると容赦がない。
(ついに拗ねてしまった)
嫌いな戦に駆り出されて働かされて。僕が小夜と懇意にしていた影をまた見つけて。いよいよ面白くなかったのだろう。臍を曲げてしまった。
「兄さま、無体を働かないで」
するりと子猫のように頬を摩り寄せじゃれる。兄を味わえず今夜も一人遊びなんて耐えられない。それこそ、へし切りか燭台切りの部屋に通いかねない事案だ。
「悪い口と思っているなら、私を満たしてくれますね。宗三」
「…兄さまの望むままに」
野生の矜持を忘れた犬のように、寝転がって腹を見せる。可愛がって、と淫靡に誘う。兄の手を引いて、自ら体を開いて、弄らせる。
「ひぃッ、あッ、にぃさま、あッ、」
「ふ、ぅ」
兄は僕の中に御自分を埋めて、深い深いため息をつく。安らぎの吐息だ。僕に覆い被さり、頬を摩り寄せてくる。
「戦は嫌いです。当分、畑仕事しかしません」
ようやく落ち着いたのか、溜め込んでいた愚痴をやんわり溢した。本来なら、主に聞かせてやるべき訴えだが、兄も本業を忘れるほど愚かではない。
僕はよしよしと、兄の頭を撫でてあやす。兄は僕の胸にもたれたまま微笑む。
「お疲れさまでした、兄さま」
頑張った兄の愚痴を受け入れ、こうして労えるのは僕だけだ。
「眠くなってきました…」と兄が瞳を擦る。僕に覆い被さったまま、動きを見せない。兄を労いたい気持ちだけはあるが、このまま放りだされてはこちらが堪らない。 肩を掴んで揺すぶる。
「兄さま!駄目ですよ!最後までするか、無理なら僕を他の男の元へ行かせてから寝て!あっ」
突然起き上がった兄に、がぶりと首筋に噛みつかれる。痛みが走った。痕がくっきりついただろう。
「酷い、兄さま!これじゃ、他に行けない!兄さま責任をとって!」
「全く、お前は小夜より手がかかる」
まるで兄の威厳がない。呆れられても良いのだ。小夜の前では僕なりの「兄上」をやった。久々に「弟」になりたい。
「可愛いい弟でしょ?疲れを忘れるくらいに」
僕の中に居る『兄さま』は疲れを見せずしっかり硬さを持っている。今度は鼻先を優しく抓られた。泣いたふりをした後、僕はけたけたと笑った。
久々に声を立てた自分に、僕自身が驚いてしまう。兄が帰ってきて、僕は自分で思っていた以上に嬉しがっていた。
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