元親は煙管を吸った。
煙を肺まで吸い込まず、口の中に貯める。唇をすぼめ、勢いよく肺から空気を押し出した。白い輪が、ふんわり空中に浮かぶ。寸の間漂い、ゆっくり空へ溶け込んだ。
その穴のあいた輪から、輪刀を持つ愛おしい人を想像できる。たかが煙で情人を連想できる元親には、盲目という言葉がぴったり似合う。気を良くし、もう一つ作ろうと煙管を噛む。
「暇だな・・」
だが、やめた。煙管を咥えたまま、口をもごもごさせ独り呟く。何も面白くて、輪を浮かべているのではない。
今は、客室で元就を待っている最中だ。煙を吹かす遊びは、読書などじっとする趣味のない元親が、高松城で唯一行える、上品な暇つぶしである。
『弥生の始め頃、そっちを訪れるからな』
とある日、元親にしては珍しく、元就へ文を送った。文自体は珍しくない。交易や豊臣の動向に関して、よくやり取りはしている。
いつも気まぐれで中国へ赴く元親が、訪問する旨を記した文を送った。これこそ、空と海がひっくり返るほど珍しい。
『貴様の律儀な気まぐれが、嵐を呼んだかもしれぬ。波に揉まれ、海の藻屑とならぬよう、日輪を奉れ』
元就の返答は、元親の気まぐれを災厄の前触れとした。不運の訪れをこじつけ、元就が崇拝する日輪を奉らせようとまでしている。
「素直に気をつけろ、って書けばいいのにな」
書き手の指先が素直でなければ、必然内容も素直でなくなる。情人の不器用さを感じ、クツクツと元親は喉の奥で笑った。文を潮風に流されぬよう、懐の奥へしまい込む。

記したとおりの日時に、船は中国の港へ着いた。心配した嵐に襲われることもなく、部下が誤って海に落ちる事故もない。まさに日輪の加護いらず。順風満帆の渡航だった。
(元就は、何処にいるんだ)
船から降りる前に、元親は甲板から元就の姿を探す。
若い娘、魚売り、坊主に旅人。色とりどりの小袖が交ざり合う港は、見ているだけで面白い。高い所から眺めると、まるで具で溢れる鍋を、目の前にしている気分だ。
賑わいの中、萌黄色の小袖を見つける。もしや元就か、と元親は身を乗り出した。つい、と萌黄色の人物が振り返える。育ちは良さそうだが、全く見知らぬ青年である。
「紛らわしい」と、船の上から恨みたらしく、元親はガンを飛ばした。可哀そうな赤の他人は、飛んでくる殺気に勘づいたのか、足早に港から姿を消す。
しばらく雑多な人の行き交いを元親は眺めた。待てど待てど、元就は現れない。港に来ていないのか。
(元就が出迎えに来てくれる。なんてなあ)
元親は、砂糖でできたコンペイトウより甘い出来事を、密かに期待していた。いつも書かない文をわざわざ送ったのも、元就の出迎えが欲しいためだ。
(やっぱり、か)
現実に肩を落とした。付き合いが始まって数年。片手で足りる程だが、付き合い始めた恋人のように、出迎えを強請るなんて、元親らしくなかったのかもしれない。
「アニキ、残念そうですね」
「アニキが珍しく文なんて送るから、毛利の大将、風邪でも引いたんじゃ」
「だから、毛利の大将は港に来てないんだな」
港と元親の様子を交互に見た野郎共が、ここぞとばかりに囃したてる。人の不幸をにたにたと嫌らしく、元親の前で笑ってみせる。
「痛つ!」
口々に茶々を入れる野郎共の頭を、元親は順に小突いた。三人共、両手で頭を押さえて涙ぐむ。泣きたいのは元親の方だ。早く船を付けろと、怒鳴って八つ当たる。
「あれ、毛利の家臣ですかね」
太い綱を抱えた一人の部下が、港の一点を指さす。その先に、目じりに皺が目立つ、中年の男が居た。城でよく見かける毛利家臣の顔だ。
彼は有能だ。『駒』と罵られようとも、戦となれば元就の背を任される。手腕と見なされ、元就に重宝される地位は羨ましい限りだ。そんな嫉妬の念を持ちつつ、元親はしっかりと彼の顔を覚えていた。
その彼が、元就の代わりに元親を迎えに来たのか。あちらもカタバミの家紋に気づいたようで、船に近づいてくる。
城へ行けば元就がいるのだ。ここでへそを曲げてもしかたない。元親は、眉の下がった表情を海の男らしく引き締める。そして、単身船から飛び降りた。


* * *


「元就さまは、軍議中で会えない」
船旅を労う優しさもなく、顔を合わせた毛利家臣は、いきなり要件を伝えてきた。
軍議があるなんて、返答の文には一言も書かれていなかった。あまりにも唐突で、敵が攻めて来たのかと元親は心配になる。もしや、気まぐれに送った文が、元就に風邪を運んだのか。布団にくるまれ高熱で喘ぐ元就を想像して、元親は青ざめる。
「いつ、その軍議とやらは終わるんだ?」
耳に入って来る周りくどい言葉を、元親は最後まで聞き流した。少し間をあけ、一番気になる問いを丁寧に投げ掛ける。
「日が暮れるころか、月が出るころか、私には見当がつきませぬ」
毛利家臣に焦った様子はない。毛利に危機が迫る、一大事ではなさそうだ。風邪でもないという。
元親は胸を撫で下ろす。
「終わったところで、元就さまが貴殿とお会いになるかどうか」
毛利家臣が嫌味ったらしく後に続けた。不躾な態度に元親はむっとする。
「今日は会えないから、また来いと元就が言ったのか?」
「いいえ、ただ軍議で予定より遅くなる、とだけ」
 堂々と言葉を濁す毛利家臣。
(こいつ、本当はいつ軍議が終わるか、知ってんじゃねえのか)
そっけない物言いに、元親は疑いを向ける。冷ややかな態度は、わざと軍議がいつ終わるか、教えないようとしていると思えた。
元就なら、終わる見通しを必ずたてる。時間がかかるなら「しばらく待て」と一言添える筈だ。
先の先を読む、計算高い性格は、こういう時に有難い。それに、日が暮れようとも元親が待ち続ける性格だと、元就は知っている。
互いに互いを手のひらで転がし合う、腹の探り合いから始まった関係だ。元親が元就の性格を深く理解しているなら、その逆も然り。
 しかし、毛利家臣の口からこれ以上要件は加えられない。軍議中で今は会えない、と言い張るだけだ。元就は、帰るも帰らないも、元親に任せるというのか。
『今日は諦めて早く帰れ』
少ない情報に悩む元親は、毛利家臣に無言の眼差しで訴えられる。一刻も早く、中国から出港させようという、目に見る態度が腹立たしい。
何故、中国訪問を邪魔されなければならないのか。今回は気まぐれでもなく、文で元就の許可を取った上での訪問だ。それをいつ終わるか知らされない唐突な軍議で、破棄する淵まで立たされている。
「なら、その軍議とやらが終わるまで、城で待たせてもらうぜ。いいよな、俺からの文は届いてたんだろ」
その場の勢いで船を離れ、城の客室で待つことを選んだ。
(軍議が終わるまで、居座ってやる)
元就の顔を見ずにこのまま引き返す。そんな情けない出航はできない。喚きだした腹の虫も「元就を抱き締めるまで、怒りがおさまらない」と主張している。
「お前らは、ここに残ってろ。あんまり遠くに行くんじゃねえぞ」
船に向かって一声かけた。威勢の良い返事が、気持ちよく港に木霊する。見張りを兼ねて、野郎共は船に残した。この時は、これこそ賢い選択だと元親は思ったのだ。


* * *


頭に血が上った時の決断ほど、後になって後悔する。元就や信親に、耳が痛くなるまで吹き込まれたこの一言。その意味を、やっと元親は理解した。
とてもとても暇なのだ。することもなければ、話し相手も居ない。試しに愚鈍な選択を選んだ己を叱ってみても良いが、傍からすれば怪しいだけだ。暇つぶしにもならない。
(せめて、貞親だけでも連れてくればよかったな)
軽率な己を、元親は怒るでもなく叱った。実際、野郎共を呼べば、一人や二人どころか元親の為にと、大勢で押し寄せて来るだろう。それでは、たちまち客室が満室になってしまう。元就に「五月蠅い」と怒鳴られ、主従揃って萎縮するオチも見えた。
ここからはあくまで元親の予想だが、大半の野郎共は今頃城下町で遊んでいる。何かと理由をつけて、元親は中国の元就に会いに来ている。中国に停泊する間の暇を、野郎共に楽しむなとは言えない。元親の勝手な都合で呼びつける。なんて、可哀そうな非道は、余計できなかった。
加えて、いつ終わると知れない軍議を、元親は待つ身である。野郎共を呼ぶとなれば、毛利家臣に頼んで、城まで来るよう、伝えてもらう必要があった。それが、腹の虫を引きずる元親にとって許せない。
頼るくらいなら、煙を吹かし待つ方が良い。そう意地を張り続け、かれこれ1刻は経った。
「宮内少輔様」
二つ目の輪を漂わせていると、障子越しに声をかけられた。まだ大人になりきれていない、少年の声だ。
「お待たせしました。元就様がお待ちです」
短く返事をすると、小姓が音もたてず障子を開く。室に蔓延した煙が不快だったのか、それとも無体に寝転がる元親が気に食わなかったのか。開けた瞬間に、小姓は眉を顰めた。
血の繋がりもないのに、小姓の仕草は元就そっくりだ。これが、使える城主に似てくるという現象か。
「やっと、軍議が終わったのか」
「はい、ただいま終わりました」
元親は、煙管の灰を受け皿に落として立ち上がる。ずっと同じ態勢で肩が凝ってしまった。腕を軽くまわし、体をすっきりさせてから客室を出る。
「案内は、いらねぇよ」
元親は振り返る。着いて来ようとする小姓と目が合った。整った顔に、やんわりと断りを入れる。
元就の私室が何処にあるか、元親は知っている。使いなれた煙管に噛み痕がつくように、何度か通ううちに覚えてしまった。
「・・・」
小姓は何も言わない。元親が元就の私室へ迷わず行ける事を、小姓も知っている。何度か同じやり取りをして、彼も覚えたのだ。
間をおかず、「はい」と、どこか拗ねた声で小姓は頷く。元親は礼の代わりに、小姓へ手を振った。


* * *


暦の上では春だとしても、空気はまだ冷たい。縁に触れた足先がひんやりする。
元親は、一番日当たりの良い東の部屋を目指した。そこが元就の私室だ。広い高松城でもう迷わない。以前は、好奇心で行き先も知らない縁を歩き、よく帰り道に困ったものだ。
一番強烈だった思い出は、異教徒の肖像画が金の額縁で飾られている、趣味の悪い部屋だ。見覚えのありすぎる顔に、口を開けてしばらく眺めつくした。次に、腹立たしさと危機を感じて、肖像画を隠し去った。
「何処へ絵を隠した」
後日、元就に絵の所在を厳しく問い詰められ、一時臨戦したのも懐かしい。今では興味を引く珍しい物もない。故に、ちょっとした寄り道もしなくなった。         
ただその日は、元親の歩みを止めるものがあった。梅のつぼみが、丸く膨らんでいる。
暖かい季節がすぐ傍まで来ていると、告げていた。甘い匂いが香るには少し早い。それでも、期待して元親は胸一杯に空気を吸い込む。生温かい酸素で満たされた肺は、冷たい刺激に震えた。
「貴殿が、」
声に、振り向いた。青年が二人、元親の前にいる。丁度、元親が行こうとした方から来たようだ。もしかしたら、青年達は軍議に参加していたのかもしれない。
手前に居る青年が、づかづかと元親に歩み寄る。元親は仏頂面と向かい合う。
「貴殿が、長曾我部元親殿か」
「ああ、そうだ」
嘘偽りないと、認めて頷いた。ここに元就が居れば、「そ奴は田舎海賊・長曾我部元親ぞ」と、ご丁寧に嫌みつきで証明してくれるだろう。
途端に青年は両目をキッと吊り上げ、元親を睨んだ。ころころ変わる表情に、元親は忙しい奴だなと、悠長に構える。
「・・元就さまに、どんな宝を貢いで、取り入ったかは知らぬ」
宝を貢ぐ。元就に取り入る。まるで、元就をたぶらかしたかのような酷い言われように、元親は呆れた。
確かに、これまで宝を多く贈りはしたが、全ては元就の喜ぶ顔を見たいがためだ。
加えて、宝で取り入るなど下賤のやる稚拙な策だ。乱れた世で使い古された手を、未だ使う輩がいるとしたら、時代遅れだと知らせてやらねば。
「しかし、元就さまは貴殿の本心など、全てお見通しよ!」
「それはお前の勘違いだ」と、訴えようとした元親の声は、青年の唸りにかききえた。
元親は手を掲げる。だが、やめて引っ込めた。
青年のつやのある肌は水々しい。十分な若さを感じさせたるためか、元親は暴言を吐かれているにも関わらず、青年の姿が子犬と重なって見えたのだ。
怒りに沸いた若い部下を、落ち着かせる方法として、頭を撫でる妙技が、長曾我部軍に存在する。元親が一つ撫でると、あら不思議。たちまち怒りを鎮め、大人しくなる。効果抜群の技だ。
しかし、相手が毛利の部下となると、効き目はあやしい。逆に子犬の興奮を刺激して、腕に噛みつかれない。
「あのなぁ、」
あやす術もなく、どうしたものかと元親は困りはてる。子犬を諭すべきか、反論して取っ組み合うべきか。どれをとっても、最良の和解とは思えない。
「申し訳ございませぬ、宮内少輔様」
張りつめた空気を、穏やかな声が破った。誰であろう、後ろに居る青年だ。子犬よりは年上に見える。背が高い。育ちが良さそうで、大人びた雰囲気をしている。そこが元就と少し似ていた。だが、元親と比べてもまだまだ若い。
「若輩ものにて、弁えを知らないのです」
子犬の頭を掴み、無理やり頭を下げさせた。温厚な顔立ちのわりに力は強いようで、逆らおうとする子犬の頭を涼しい顔で押さえつける。そして子犬の背を小突いた。不快、と書かれた顔を子犬はあげる。
「申し訳、ございませんでした」
実に可愛げのない言い方だ。今度は深々と、補助なしに子犬が頭をさげる。
「何故、私がこんな男に」
不貞腐れた声で吐き捨て、目も合わさず行ってしまう。元親と長身の青年が残された。青年は眉をハの字に下げる。
「申し訳ございませぬ。先ほど、元就さまの私室にて、宮内少輔様から頂いた、見事な椀を見せて頂きました。そこで何を勘違いしたのか、宮内少輔様が元就さまに宝の山で取り入ったなどと・・・。身分を弁えず、宮内少輔様にあのような無礼を働いたこと、あとで厳しく申しつけておきます」
長い詫びを告げた後、長身の青年はため息を零す。飼い犬の躾に、苦労している。そんな言葉が似合った。
元親は「気にするな」と、手を振る。売れもしない油を売ってないで、元親は早く元就のもとへ行きたかった。それを察してか、青年は急いで元親に道を譲る。静かに頭を垂たらした。
「ですが、彼の言う通り。宮内少輔様は同盟国であり、いくら元就さまと仲が良くなろうとも、毛利の者ではないことを、お忘れにならないでください」
すれ違った瞬間、青年の穏やかな声が響く。
「元就さまの御心は毛利にあるのです。宮内少輔様は、元就さまにとって、吹き抜ける風の一部でしかありません」
思いもよらぬ忠告に、元親は振り返ってしまう。
 確かに、元就は西国一の知将と謳われ、策の上に策を重ねる曲者だ。元親とて、元就の秘める野心と、それを完遂させる非道な行いを忘れたわけではない。
四国を奪うために、元就が心を開いたふりをしている。片手で足りる元親との数年の付き合いも、罠の途中だ。と、青年は言いたいのか。
青年の頭は、縁へ向けられたままだ。しかし、眼は鋭利な刃物と同様で鋭い。客室に現れた小姓が、元親に向けた眼と似ていた。
『元親は吹き抜ける風。元就の心は毛利に』
遠まわしに投げつけられた言葉が、元親に重くのしかかる。苦みのある、払いきれないしこりを残した。元親は舌打ちして頭を掻く。
「ったく、何が言いたい」
「言葉の通りです」
 目元だけを強張らせ、青年は涼やかに笑みをこぼす。かち割ってやりたいほどの、清々しい笑顔。
 煮え切らない青年に苛立つ元親。清楚な装いに隠した言葉を、無理にでも此処で吐かせてやろうか。邪心が覗く。
 しかし、元親は拳をあげない。毛利家臣との争いは、元就に堅く禁じられていた。犯せば理由はなんであろうとも、しばらく中国への渡航は許されない。元就が定めた掟の前では、元親も無力。焦燥で揺らぐ拳を握るしかなかった。



* * *


元就の私室について、元親はまず火鉢を目指した。子犬に噛みつかれ、長いこと縁に立ちつくしたせいで、体が冷えてしまった。それに元就は、火鉢の上に網を置き餅を焼いている。
「遅かったな、元親」
火鉢を挟んで、元就の前に座る。元就が火箸を片手に、こちらを向いた。
元親に会えてそんなに嬉しいのか、元就の頬が赤く染まる。そんな筈がない。事実であればそれこそ何かの罠だ。元就は、目の前の餅が楽しみなのだ。
「てっきり、不貞腐れて帰ったと思っていたが」
「1刻も待たせたお前が、言えることかよ」
網の上の餅が、焼き上がった合図に膨らむ。庭で見た、梅のようだ。
「貴様のことだ。我が帰れと言っても、終わるまで待つであろう」
 さすが元就。全てお見通しだ。焼き上がった餅を前に、元就の目元がとろける。
「まあな」
元親は短く相槌、餅を手にとった。あまりにも熱く、掌で右往左往させた後、服の裾で包む。
「貴様より、勉学熱心な駒に、兵法を授けるほうが大事でな」
丁寧に焼いた餅を元親にとられ、元就の眉間に怒りの皺が寄る。餅をこれ以上とられまいと、火鉢を自分の方へ引き寄せる。
「兵法?軍議じゃなかったのか」
軍議でなかった。元親は聞いて驚く。
「今日は貴様が来ると申しておったから、軍議は入れておらぬ」
元就は、焼き上がった餅を全て皿に移す。餅がなくなった火鉢に、元親は手をかざした。
「突然、兵法を学びたいという駒が来てな。我も貴様を港に出迎えるまで暇だった故、教えてやった。ついつい長引いてしまったが」
元親に奪われることを恐れて、元就は皿を離さない。手を出そうとすると、怖い顔で睨まれる。
(変だな)
確かに元親が此処に来た時は、家臣の口から「軍議中」と聞いた。しかし、喜ばしいことに元就には元親を港まで出迎える意志があった。許されるなら、餅をもぐもぐ食べる元就を抱きしめたい。二人を温める火鉢が、これほど邪魔な存在だとは知らなかった。
(こりゃ、謀られたな)
元親は頬をついた。どうやら、元親は毛利家臣に謀られたらしい。
おそらく、元親が来ると知らされた家臣たちは、元就と合わせまいと策を練ったのだ。
ある者は港まで出向いて、船を追い返そうとしたり。またある者は暇な元就のもとへ兵法を習いに行ったり。あの手この手を使い、両方を上手く足止めさせた。元親が、律儀に文を送ったことで、毛利家臣一団に策を練る準備期間まで与えていたのだ。
嫌がらせを受ける理由など、元親はいくらでも思い当たる。元就の私室で、小型のカラクリを披露した時、誤って零れた火薬に火をつけた。あのボヤ騒ぎは、御家をあげての一大事にまで発展し、今ではちょっとした笑い話しである。執務で忙しい元就にちょっかいをだし、仕事を滞らせるなんていつものことだ。無秩序を嫌う毛利家臣一団が、無法者の元親を気に入るとは到底思えない。
(あいつら、もか?)
ふと、二人の青年の姿が浮かぶ。わざと元親を怒らせ、騒ぎを起こし、城に近づけなくさせる策だったのかもしれない。今思えば、毛利の家臣としては行動が軽率だ。
(あの小姓も?)
疑えば疑うほど、泥濘にはまってゆく。こういう手の込んだ所は、流石、元就の駒と言うべきか。野郎共には到底できない真似ごとに、元親は感服する。野郎共なら、策を仕掛けるより先に手を出す。拳を振りまわす姿が、容易に想像できた。
降参だ、と素直に両の手を上げる。何処からが策なのか推測もできない。ただ、これだけは確かだ。毛利家臣一団の恨みに、少なからず私情が含まれている。
特に青年や小姓には、中年の家臣とは違う、嫉妬が潜んでいた。中年の家臣が、よそ者を排他する嫌悪を向けてきたのであれば、若者達は敬愛する人を盗られた、情愛の恨みが込められている。
冷淡すぎる性格を覗けば、元就は十分魅力的だ。富んだ知略。笑えば妖艶な表情。頑固な自尊心の中にみせる、儚い弱々しさ。
そこに元親自身も惚れ込んだと言えるし、元就と毎日顔を合わせる家臣達が心揺さぶられても無理はない。元就は、熱心に熱を上げられている。
「お前ってけっこう、言い寄られたりしてないか」
持っていた火箸を、元就に向けて気を引く。急に不安になった。元就の気が、変わってしまうのではないかと。
「戯けたことを。我に言い寄ってくるなど、貴様くらいぞ」
元親の気持など露知らず。餅を食べ終えた元就は、皿を差し出す。餅はもうないのに、まだくれと言う。
(冷たくしてるのに、どうやったらここまで好かれるかねぇ)
毛利家臣は、揃いも揃ってそういう性質なのだろうか。呆れて言葉もない。先ほどの怒りも、どこかに吹き飛んでしまった。
しかし、元親は青年に言われた一言を、未だ引きずっていた。もやもやと、心は黒く醜い感情に覆われる。
「なぁ、まだ四国が欲しいか」
元就が四国を攻略する様子が見られなくとも、油断してはらない。情けない事に、元親は再度危機を感じたのだ。
瀬戸海を挟んで睨みあった、殺伐とした時間を思い出す。幾度、瀬戸海に大砲を響かせたことか。煮え切らない駆け引きが面白くはあったが、二度と元就と刃は交えたくない。手放せば、元就は帰ってこない。見えない事実に、薄々元親は勘づきもしていた。
元就の事は、信じている。それでも、安心させてくれる一言が欲しい。此処で聞いておかなければ、子犬に吠えられた不安が拭いきれない。だから、問いた。
からんと、乾いた音を立てて炭が崩れる。元就に、鳶色の目で見つめられる。
「元就さま、御餅をお持ちいたしました」
頼んでもいないのに、追加の餅を持った小姓が現れた。とんだ邪魔に、問いが流される。
「使える駒よ」
元就は嬉々として部屋に招き入れた。とうてい褒めている様には思えない言葉をかける。しかしこれがよほど嬉しいのか、小姓は頬を赤く染めて答えた。
元就の頑なな瞳。情けない自分自身。元親は他の誰とも顔を合わせるのが億劫で、黙って炭をつついた。


* * *


「元親、先の答えだが」
 網の上で焼ける餅を眺めていると、元就が口を開いた。小姓は追加の餅をとりに、席を立っている。
「四国を落とそうと思えば、我にふ抜けた貴様を殺す機はいくらでもあった。それでも、貴様の首は繋がっておろう」
 元就は言い残し、餅を口へ放る。行儀よく咀嚼し、飲み込む。
「それでも信じられぬなら、悪さができぬよう、我を四国に閉じ込めておけ」
元就を見つめ、元親も餅を手に取る。手のひらが、じんと熱で焼ける。元親は餅に噛みつく。今までの不安をと一緒に噛み砕き、飲み込んだ。
言葉が、ゆっくり心に染み込む。これが、四国を落とす策であるものか。元就の口からここまで聞けたのなら、むしろ本望だ。何もかも放りだし、元就と静かな山間で暮らしてもいい、とさえ思う。
「嗚呼、貴様と共に四国で暮らすのも、退屈せずに良いかもしれぬ」
ふふ、と餅に向けて元就が微笑む。元親はいよいよ火鉢を吹き飛ばし、抱きついた。渇きを覚えた腕が、動かずにはいられなかった。
元親の重みに、元就の体が倒れる。皿の上に乗せられていた餅も、一緒になって宙を舞った。そして、折り重なる二人の前に、ぼとりと落ちる餅。
「先の手、発!」
 餅の恨み!と、元就が怒る。元親は緑の光に呑まれ、畳ごと高くひっくり返った。


 その後、練りに練られた家臣一団の罠が、あれだけで終わる筈もなく、元親は四国へ帰るまで翻弄され続けた。
しかし、元親とて一国の主。半日もしないうちに、披露される策をかわすまで成長した。いまや、襲い来る策を火種にしないよう、器用に応戦している。
毛利家臣一団も、仕掛け甲斐がある、と意気揚々だ。熱は更に増してゆくばかり。そのやり取りは、まるで戦場に飛び交う弾丸さながらだ。
「駒と元親の仲が良いが、何かあったのか」
餅を咀嚼しながら、元就は小姓に尋ねる。殺気を腹の奥底に隠し、いい笑顔でじゃれ合う家臣と元親に疑問を感じた。双方とも、戦場で友を得たような、実に清々しい表情をしている。
「さあ、何があったのでしょうか。私には、見当もつきませぬ」
敬愛する城主に、小姓は愛らしく首を傾けた。
水面下で繰り広げられる、毛利家臣一団と、長曾我部元親の戦いについて、小姓が元就に伝えるべき事は何もない。全ては毛利の為、元就の為を思っての策だ。
火鉢で餅を転がし、何食わぬ顔で小姓は目の前の闘争を眺めた。できれば、長曾我部元親が粉々に砕け散り、春の穏やかな潮に揉まれるまま、瀬戸海に沈んでしまえと念じながら。
 元就は、不可解な現象を気にしつつも、焼き上がった餅の芳香に誘われていた。



2011.5 『瀬戸に、銃声』より
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