元親は息をしたくない。
 手で鼻を抓み、口を塞ぐ。鼻から肺へ、口から肺へ、酸素の輸送を妨害してみる。
「うっ」
 息苦しさに体がすぐ音をあげた。ぷはっと息を吐き出す。大きく胸を膨らませ、酸素を取り入れる。それでも、絶えまなく繰り返される生命維持の活動が煩わしい。
普段なら、虫の音と等しい些細な息を気にしない。むしろ生きて行くかぎり、呼吸は大切な運動だ。
例えば寝付けない夜。闇に漂う微かな息づかいにそっと耳を傾ける。意識を合わせれば、安らぎを覚え、いつしか眠りに落ちる。
元就と過ごす、別の夜。腕の中ですやすや寝息を立てる元就を何度眺めて眠った事か。無防備に眠る姿は元親の胸を高鳴らせる。仏頂面が剥がれた何も繕っていない頬を、撫でずにいられなくさせるのだ。
何より呼吸は、生きている証だ。胸に手を当てれば自覚できる、とくとくと脈打つ生命の力強さ。肺に酸素を取り込み、丸々一日動き続ける心臓。その過酷な労働あっての命に感謝しながらも、今は律儀に上下する体が憎い。
呼吸が憎いからといって、元親に死への憧れは全くない。呼吸を止めれば、魂と体が切り離され、三途の川へ運ばれる結末を重々承知している。
三途の川を渡るにしても、今の元親では不可能だ。日の本に眠るお宝の山に未練たらたらであるし、溢れる活力も未だ枯れそうにない。六千文を握りしめ、船に乗り込んだ所で、煩悩の数に沈んでしまう。
「肉体的にも、精神的にも、不慮がない限り長生きできましょう」
掛かり付けの薬師からも、お墨付きを貰ったばかりである。よって、健康な体と尽きることのない野心を携え、元親はあちこちへ船を走らす。これでは死へ程遠い。
「貴様の気力を、もっと他のことに使えぬのか」
元親を見かねた元就は特に体力と金の無駄だと嘆く。半分は呆れを通り越し鼻で馬鹿にされる元親の海賊行為だが、何もカラクリ造りの資金稼ぎだけを目的としていない。半分は元就に何かしらの土産を渡したい一心なのである。
土産を渡せば顔に出さないものの、元就はとても喜ぶ。綺麗な顔が、喜び、驚き、不思議がる表情は、何度拝もうと見飽きない。
今の世に、一瞬の時を絵として残すカラクリがあればよいのに。映し絵も淫靡で美しくはあるが、墨と単色で書かれた紙に魅力を感じない。そもそも、たかが紙切れ一枚で元就の可愛らしさを表現しきれるわけがない。芸術に疎い元親でも、これだけは胸を張り豪語できた。
それに、時を捕えるカラクリさえあれば、稀に変化する元就の愛おしい表情を永遠に手元に残しておける。会えない寂しさも少しは紛れよう。執務で城に閉じ込められる間の我慢の材料となり、筆を持つ時間が少しは長くなる筈だ。
「そういうカラクリができれば、技術の発展だろうよ」
鼻高々に、元親は絵に書いた餅を元就に自慢した。火力を使い、軍事力が飛躍的にあがったとしても、生活の一部に役立つ器具に進化はない。戦が終われば、また平和な世が訪れる。平和はいずれ暇をもたらし、こういった娯楽もきっと必要となるのだ。
「無駄な事ばかり、思いつきおって」
元就は眉間を押さえ、「貴様は筋は良いが、どこかずれている」と悔やんだ。元親自身の事を、こんなにも惜しんでくれる元就が居るのだ。残して死ぬ気などさらさらない。戦死であれ、病死あれ、与えられた天寿を全うするのみ。
唯一元親が願うとすれば、どうか、どうか今この場所で二人分の呼吸を誰かに気取られないこと。元就と二人、ある目的地へたどり着けるのならば、呼吸は止まっていい。
(だからって、死にたくはないがよ)
目的に思いを馳せる元親は、左手にできあがったばかりの銘酒を、右手には元就の細い手を握り占めていた。目を左から右へ、右から左へ右往左往させ、執拗な警戒を怠らない。絶え間なく首を振る今の元親なら、機敏な犬にだって負けていない。負けてなるものかと、変な自信さえついていた。
「何をそんなにきょろきょろしておる。四国の地がそんなに珍しいか」
左腕に重箱をもつ元就が、呆れた視線を元親に向ける。目の前に、年甲斐もなく落ち着かない巨体があれば、誰だって冷ややかな視線を送ってしまう。加えて、元親が生まれ育った四国の山の中だ。
「何でもねえ、行こうぜ」
 元就の手を引いて、元親は獣が作った自然の道を通る。人専用でない道は、太陽の恩恵を受けて育った草や木の葉が行く手の邪魔をした。元就に当たらぬよう、払いのけ進む。白い頬に掠れもすれば、眉間に皺を寄せ、ちゃんとした山道を使えと元就は怒る。
それでも元親が些細な呼吸を嫌い、わざわざ獣道を使う理由。全ては積み重なる不幸にあり、さらなる悲劇を避けるためであった。


* * *


遡れば弥生月のこと。雪が溶け、やっとの春に喜びが育つ季節。元親は、元就と岡豊城の庭にいた。
二人して、鼻先を梅の花に寄せる。実がついている筈もないのに、酸味がする甘い香りに唾を飲み込んだ。子を宿した腹のように膨れる蕾を見ているだけで心安らぐ。
「良い香りぞ」
元就が、うっとりした目で小さな花を愛でる。まろやかな表情を浮かべる元就に、元親は別の意味でごくりと生唾を呑んだ。そして、元就の頬に寄り添う梅の花を見た。
手のひらで握れば砕け散る花弁の集まりが、元親の真ん前で元就を魅惑している。枝につかまり、自由奔放に咲き誇るちっぽけな存在が、元就を捕まえて放さない。
(元就を魅惑するその妙技。教えて貰いたいもんだな)
元就の目元を蕩けさせ、元親の心を嫉妬でくすぶる不思議な力。甘い匂いの中に、魅惑する秘薬でも蓄えているのだろうか。あるのならば、何としても物にしたい。元親は白状しろと、無抵抗な相手をいいことにえいえいと花先を突く。
梅は、この酷い仕打ちに動じない。花弁を広げ、じっと元親を見据える。その堂々たる姿勢は、なんと立派なことか。
男なら人の能を羨まず、自分の持てる限りを尽くしてみろ。戦に関わらず、恋沙汰も同じだ。己の能を最大限に生かせる男ほど、周囲から崇拝し、讃えられ、他人を魅了する。どうだ分かったか、と梅に無言で語りかけられるという、変な錯覚に陥った。
珍しく胸を真摯に撃たれた元親は、己の非道を深く恥じる。そして、単純に梅を羨んだ。
「いいなあ、梅は」
人の身を持つ元親にとって、己の才を開花させる成長は難しい。自然の摂理に従い、咲くだけで能を開花させ、元就を魅了できる梅とは、そもそも土俵が違うのだ。
せめて、梅の才にあやかろう。手に添えていた小枝を元親は折る。儚い音で命は絶たれた。
同時に、梅の気持を代弁するかのような目で元就に睨まれた。感慨深く感傷している元親に、向けられるべき視線ではない。品がない、と言われているようでとても不名誉だ。
「桜折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿。知らねえのか」
 元親はいやらしく微笑む。ある分野でなら、元親だって博識だ。それを知らしめるよう、梅の木の正しい育成法を説明してやる。
梅は、適度に間引いてやらないと花付きと実付きが悪くなる。以外に手間のかかる木なのだ。それでも、お咎めの視線は元親に降り注ぐ。
手入れどうこうではなく、元就は枝をおる行為が気に入らないのであろう。
「悪りぃ」
一応、元親は素直に謝った。詫びのしるしに、折った枝を差し出す。ご機嫌取りは功をなし、元就が喜んで鼻を寄せる。
先程と全く同じだ。梅を寄せる仕草は、口付けを求める姿に似ている。元親は見とれた。梅になって、唇に触れたい。口が、物惜しげに動く。
「いいなぁ、梅は」
「本当に、美しい」
 元就が同意する。元親は梅を「良い」と、絶賛していない。白昼堂々人目も気にせず、元就に口付けを求められる、梅の花が羨ましいと言ったのだ。元就は、その意味を分かっているのだろうか。
すっきりしない心地のまま、元親は濡れ縁に腰かける。離れた場所から見る梅は、香りさえ遠のきはしたものの、美しさを損なわず立っていた。むしろ、梅の花一つ一つを重ねあげた、個がまとまった強さを披露してみせる。
見事に咲き誇る恋敵に、元親もしぶしぶ負けを認めた。これでは、元就に好かれてもムリはない。
それでも最後の悪足掻きに、美しい姿を酒の肴にしてやろう。元就とゆっくり酒を傾け、仲の良い姿を見せつけてやる。
元親は梅に向けいやらしく微笑んでいた。もはや、何にムキになっているのか、元親自身よく分からない。意地を張ったところで、梅は所詮花であり、植物なのだ。
「今夜花見しようぜ、元就」
元親の声かけに、元就がやっと梅から顔を離した。指先でくるくる枝を回し、隣に腰掛ける。
「花見と言っても、貴様は酒が飲みたいだけであろう」
 耳に痛い小言を零される。確かに、元親は酒が大好きだ。
喉に流せば、気分を良くさせる至宝の飲み物。誰しもが虜になる、癖のある液体。元親も、酒に喉を優しく撫でられ、カッと焼きつく刺激を愛して止まない。
更に酒は一癖も二癖もある奴で、巧妙な策を人に仕掛ける。呑み始めこそ、健全な者の胃を満たすだけが、次第にぐびぐびと煽らせる。足がふらつき、計画通り酔っ払った所で脳天を侵略し、ついには人格に取り入りその者を狂わせ豹変させてしまう。
脳天を犯された子分共を、元親は多く介抱してきた。酒樽を抱えて、げらげら床を笑い転げる子分。「アニキ~あにきいいい」と、元親に泣き縋る子分。威勢の良い長宗我部軍を、まるで駄目な男だらけの集団に変える。酒は、畏怖すべき力を備えていた。
元親以上に、酒に隠された脅威を元就は周知している。知りすぎた為に、酒に酔って与えられる至極の時間を嫌悪した。高松城にある酒樽に、「禁酒」と元就の字で書いてあるのだから筋金入りだ。
「いい肴じゃねえか。たまには、お前も呑めよ」
 知ってはいながらも、元親は誘ってしまう。元就がむぅと、怪訝な表情を浮かべる。
「今夜は特上の酒を開けさせるから、な?」
 な?ともう一度念を押す。梅に一矢報いるため、どうしても一緒に酒が飲みたい。
「酒より餅が良い」
 元就はどうも酒を飲む気にならないらしい。白く丸い花弁を見詰め、それだけ呟く。
実は元就が酒を拒むここだけの理由を元親は知っていた。酒を舐めただけで、元就の白い頬に赤みがさす。弱くはないが、顔色に出やすい体質なのだ。
弱みを見せるようで、赤く火照った姿を元就は酷く嫌う。酒の席でも、意気地を張り背筋を伸ばし、隙を見せまいと虚勢を張る。
「熱い」
しかし、酔いが回れば、元就は酒を前に矛盾を覗かせた。襟元を緩める姿こそ隙そのもので、花に劣らない、色香をふうわりと辺りにまき散らかす。その淡い芳香に喉の渇きを覚え、火照った体を掻き抱く瞬間が元親は好きだ。
 だからと言って、飲みたがらない相手と無理強いして交わす酒は不味い。気乗りしない元就を、これ以上誘っても無理だと思えた。
(ここに、元就好物の餅さえあれば、一緒に花見をしてくれたのによ)
元親は嘆いた。元就が来る前に用意された餅は、朝と昼の間に、所望する本人の腹に消えた後だ。あれだけ食べて、まだ欲しいというのか。この調子で食べ続ければ、日の本の餅を元就は完食することになる。
元親にとって酒が永遠に愛すべき食べ物なら、元就にとっての愛すべきそれは餅と言ってよい。とにかく、元就と花見をするなら、餅が何より必要だ。 
(そうか!)
元親は、花と餅を見比べ閃いた。
 大量の餅を持って花見へ行けばいい。花弁が散る木の下で、重箱に敷き詰めた餅や菓子を食べる。そこで、それとなく酒を勧めてみる。餅で機嫌上々となった元就なら、差し出した酒を躊躇なく呑んでくれるのではないか。
 一寸の狂いもない完璧な策に、元親は自分の才を恐れた。やっと開花した才と、カラクリ兵器さえあれば、日の本統一は夢でない。元就と平和な世を過ごす、なんとも素晴らしい希望が見えた。後は、策を完遂させるだけだ。
(花見といったら、桜だよな)
またしても、妙案を思い付く。花見ならば、これから盛りを向かる丁度良い花があるではないか。
「元就、郡山城の近くに、桜の名所があったよな」
郡山城から少し放れた小高い丘。むかしむかし、この地に荘園を持っていた貴族が桜の木を植えた。小さな桜の苗木はすくすくと育ち、今となっては見事なまでの大木となっている。卯月になると、可愛らしい色の花を咲かす。
「馬があれば、すぐに行ける距離だ」
生まれた土地の話しに、元就はすぐ察して頷いた。鳶色の瞳に郡山城を思い浮かべる。久しく郡山城に帰ってないと言っていたから、懐かしくなったのであろう。すっきりとした瞳に哀愁を映す。
「桜が咲いたら、餅を持って花見をしようぜ」
 元親の提案に、元就が顔を向ける。瞳を数度瞬かせ、目元に少しだけふっくらとした弧を描く。
「それも、良いな」
優しい声で、元就は訪問を約束した。
元親は破顔する。策完遂の一歩を踏めた事よりも、元就の憂いを、思いつきの誘いで吹き飛ばせたことが嬉しい。提案は正答だった。算段の問いに全て赤丸を貰ったような、誇らしい気分に元親は浸った。


* * *


そして卯月。厳島近くに船を着け、元親はそこから元就と郡山城へ向かう。
「元就さま、奥安芸はまだ寒いと聞きます。冷えましたら、これをどうぞ。体が温まります」
「うむ」
厳島から去る際、旅路を心配する毛利家臣が、あれこれと元就に包み渡す。暖かい羽織。笹の葉で包んだ握り飯。どれも、郡山城に着けば揃うものばかりだ。
「不逞な輩に出会うかもしれませぬ。どうかお気をつけて」
子犬のような顔をした青年の家臣は、「私に御供を仰せつかってくだされば」という雰囲気を言葉にありあり混ぜる。
「道中、危険な事がありましたら、どこぞの鬼など放っておいて、お逃げください」
「うむ」
 長身の青年も、横目に元親を睨みつけながら旅路を心配する。どこぞの鬼とは、誰のことなのか。人である元親には、さっぱり見当がつかない。
「兄貴、楽しんで来てくださいね」
「帰ってきたら、土産話を聞かせてください」
 四国から小舟を漕いでくれた子分共が元親に近づく。顔を揃えて口々に見送りの言葉を寄せた。こんなにも素直な子分共は、どこぞの家臣と比べて本当に可愛い。
「悪いな、中国に来るだけのために、船を出させちまって」
子分の頭をぐりぐり撫でた。今回は奥安芸に行くためどうしても長旅になる。そのためいつも使う大船を使わず小舟を出した。元親の私用の為に、中国まで共に来てもらう船旅に少なからず罪悪感が付きまとう。
「兄貴の為なら、これくらいなんてこと」
 答える子分は、白い八重歯を覗かせた。しかし、寸の間黙ると、毛利家臣を注意深く様子見て元親の耳に顔と手を寄せる。元親も、何の話しだと、合わせて大きな体を屈めた。
「中国に来るのも、実は楽しみにしてるんですよ。俺達、実はこっちに・・・」
 こしょこしょと、続きを小声で耳打つ。思いもよらぬ艶めいた秘密に元親は目を見開く。子分共の顔をざっと見渡した。
「そうだったのか。俺の知らない所でやりやがる」 
元親と似た理由で来た面々に、にかっと笑顔を振り撒く。これで土産でも買ってやれと、元親は手に金をたんまり握らせた。子分の声が弾む。
「だから、俺達のことは気にせず、ゆっくりしてください。国は信親のアニキがいれば、安心ですぜ」
 互いにいやらしい頬笑みを交わしあう。心の中で思う事は一緒だ。これ以上、口にする事はない。
「元親、行くぞ」
「応。じゃあな、行って来るぜ」
 元就に声を掛けられ、元親は子分共に手を振る。「いってらっしゃい」と、青空に多く手が揺れた。


* * *


 馬を進めて二日後。郡山城に着いた。城では手厚い労いを受け、夜は温かい宴会でもてなされる。元就は久しぶりの故卿に終始機嫌がよかった。酒を煽ったのがその証拠で、花見の席より一足早くこの場に淫靡な花を咲かせた。
次の昼前には、酒とこしらえた重箱を抱えていた。逸る想いで元親は馬に跨る。目指すは美しく咲き誇る桜の木。
「お待ちしていました、元就公」
 そこで待っていたもの。美しく、花弁を揃える桜。雲ひとつない晴天。気味の悪い頬笑みを讃える、明智光秀。
「なんで、あんたが此処にいる」
 馬を川辺近くに繋いで休め、桜の木に近づけばこのざまだ。特等席に錦の御座を引いた明智が、しおらしく座っていた。
元親は自ら前に出て、声を張る。変態が何をしに来たと、睨みつけるが効果はない。むしろ嬉しそうに、にやありと笑う。気味の悪い妖艶さ。背中に悪寒が走る。
「元就公が、ここでお花見をする御噂を耳にしたのです。これは私も是非参加しなくては、と思いまして。はるばるやってきました」
 さぁ呑みましょうと、酒瓶を傾ける。明智の視界に元親はいない。腰が引き気味の元就を、捕まえたと言わんばかりに写している。
殺気とは違う恐ろしい視線に、元就が体を震わせる。無理もない。元就は明智を嫌っている。というより、怖がっていた。
誰だって、残虐を好む明智光秀に、対面した早々、「貴方は私と同じ匂いがします」と言われれば傷つく。それどころか自分を内側から疑う。心が弱い者であればとっくに気が狂っていた。
「ここは毛利の土地。勝手な花見など許さぬ」
「去れ」と元就は堂々と威張る。眉間にシワを寄せ、明智を睨む。口惜しいかな。その鋭い視線に、僅かばかりの恐怖が入り混じっている。
どうしようもない変態を前に、元就は口では強がっていながらも、心の中でふるふる震えているのだ。心中察した元親は、可哀想に、と自分の体を盾に元就を守る。
「そんなつれないことを仰らずに。元就公は、甘いお菓子が御好きでしょう?」
元就の腰がまた引いた。早く此処から立ち去らせろと、元親に目配せする。元親とて、変態と花見を楽しむつもりはない。
「早く魔王の所に帰んな」
「貴方に指図される筋合いはないのです。私は、元就公と一緒に花見を楽しめればいいのですから」
 ドスの利いた声で元親は威嚇する。腹立たしいことに、明智は元親に全く興味のない素振りだ。
「それに・・・信長公とは、くく、アーハッハッハ」
 ついには魔王の名前が出て来ただけで、体を小刻みに震わせる。仰け反り身を屈め、また仰け反り笑った。気持ちの悪さに元親も逮撃する言葉を失う。肌がいよいよ粟立った。
「元親。我は用を思い出した」
 元就の澄ました声と馬の荒い鼻息が聞こえた。いつの間にか元就は馬に跨り、遠い所を見つめている。明智が尾張へ帰らないことを悟った目をしていた。そして、馬の腹を荒々しく蹴る。
「元就!」
「元就公!」
 声が不快にも重なり合う。元親は全ての元凶である明智を睨みつける。驚く事に、もう明智の姿はない。
「何故御帰りになるのですか」
腰を落としたまま元就を追っている。このままでは郡山城まで追って来かねない。さすれば元就は早々に厳島へ帰ると言い出す。
「この野郎!」
元親は渾身の四縛で明智をひっ捕まえた。「嗚呼、」と恍惚した明智の表情は見れたものでない。
桜には申し訳ないが、立派な枝に吊るさせてもらう。明智とて、血肉でできているのだ。いづれ時が経てば肉体が朽ち、美味しい養分になるであろう。
「明智を糧に、綺麗な花を咲かせてくれや。また来年、元就と花見に来てやっから」
 元親は桜の木の下で涙を呑んだ。明智がぎしぎしと幹を揺らし、悶える。四縛が解けるのも時間の問題だ。馬に跨り、元親も帰路を急ぐ。
 郡山城につき、元親は馬から飛び降りた。手綱を握り、荒い呼吸の馬を馬屋まで連れて行く。先に逃げ帰った元就は、馬屋の壁に寄り掛かっていた。
「!」
歩み寄ると、血相を変えて睨みつけられる。近づいたのが元親だと分かると、身構えていた体を地面に崩した。馬が心配して、鼻先をそっと寄せる。
元就は明智が追ってきたのではないかと危惧していたに違いない。いや、追ってくる確率の方がはるかに高い。武将として、正しい構えだ。
「花見は次の機会だ。郡山城にも長居無用ぞ」
ため息を零す元就に、元親は頷いて同意した。大変な変態を目の当たりにして、気落ちした元就を誘い、明日また花見へ行くのは無理であろう。元親も流石に疲れていた。
それでも、元就との花見は諦めない。元親は拳を握り、うららかな空にそぐわない野望を馳せた。


* * *


弥生の梅は遠に枯れた。卯月の桜も散り、いまや力強い緑の葉を茂らせている。暦は皐月。杜若や、藤が見ごろの季節となっていた。元親の企みも、月を跨いで萎えることなく、同時に盛りを迎える一方だ。
明智光秀の登場を前に、蜘蛛の子が散るように解散となった花見。あの悪びれもない笑みを思うと、今でも腹の虫が怒りだす。ぽこぽこ暴れまわり、元親に酷い仕打ちだと訴えた。嫌がる元就の尻を追いかけて楽しむなど、趣味が悪いにもほどがあると。
元親は腹を撫で、腹の虫を諭す。山には芽吹きを待つ花が、咲き誇る番を待ちわびている。「己を見てくれ、願わくば、一番の盛りを愛でてくれ」と誘う。
たかが一人の男に、夜も眠れぬほど楽しみにしていた花見を邪魔されたからといって、気を落とす必要などない。むしろ、これは人気のないところで、元就と酒を傾ける絶好の機会ではないか。
元親は、山中に藤が枝垂れる穴場を知っていた。姫若子から少し卒業しかけたころ、山の中を一人ふらふらしていた時に見つけたのだ。十年以上前のことになる。
すでに藤は枯れ、次の花へ主役を譲り渡したあとだと思っていた。見事に群れる野の藤に、相当驚かされた。
山中に咲く花は、同じ種で有れど、人の手によって植えられたモノより芽吹きが少し遅い。花に性格があれば、間違いなく、のんびりとした育ちの女子だ。
元就をそこへ招待しよう。元親しか知らぬ、俗に言う秘密の場所ならば、誰も近づくに近づけまい。今度こそ、元親の策は完璧だ。
さすれば腹の虫も、そうだそうだと、コロコロ笑う。だが油断してはならぬ。いつ二人の行き先を知った者に、邪魔されるか分からぬ!と眉を顰め、驕る元親を注意する。
腹の虫の助言など百も承知。元親は誰も気付かれぬよう、事を運ぶと決めたのだ。
花見当日。城を出れば、あっちへきょろきょろ、こっちへきょろきょろ。山の中へ入れば、人が使わぬ獣道を使うのも、全ては妨害を防ぐためであった。
半分程度歩いたところで、元親は休憩をとることにした。日が高い。湿気のない空気を吸い込むだけで、気分が晴れた。二人を追う、不貞な輩の影もない。元親は一安心と、草の中に腰を埋める。一息ついた。
「元親」
呼びかけに、空を見上げた。青雲を背景に元就が、元親の真ん前に立っている。
隣へ座れ、と元親は手を差し伸べた。応えるように差し出された元就の腕は、何故か元親の口に近づく。途端、丸いものをねじ込まれた。
不揃いのつぶつぶとした舌触り。反射して噛み砕いた、柔らかいそれに甘味はない。口を潤すだけの未知の物体に肌が粟立つ。それでも飲み込んだのは意地だ。
「何食わしやがった!」
触感が嫌に残る舌を無理やり転がす。手の内の反応が面白いのか、元就はくつくつ笑った。
「これぞ」
「ヘビイチゴ」
見覚えのある実に、元親は確認するよう、その名を口にした。
元就の手に握られる、赤い実のついた小さな茎。茎は短く、実も親指の先ほど小さい。賑やかな山の中で、その存在に気付けるのは、黄色い花を咲かせ、真っ赤な実を実られる、自己主張の強い装いのせいだ。
幼いころに、これは毒があると母に教わった。死ぬのは嫌だ。摘みたくなるほど可愛い姿だが、幼い死への恐怖心に、見かけただけで避けて通ったものだ。
後々、毒はないと知る。だからと言って、食べる物に困る飢饉もなく、ただ足元を掠める存在だ。それが、こんな身の毛もよだつ味だなんて。「毒」と名の付くのも頷ける。
「気に入ったか」
首を傾げる元就は、憎たらしいほど愛嬌がある。元就自身、ヘビイチゴがどのようなモノかを知っている上で元親に食べさせたに違いない。もう一つ実を摘み、元親の口元へ近づけてくる。
これが上手い刺身であったなら、どんなに夢心地だったか。元親は悲しむ。そして仕返ししてやろうと、差し出された腕を今度こそ引き寄せる。
「どうだ!」
子どものように揉みあった末、元就の体を下へ転がす。参ったか、と元親は笑った。
鳶色の髪を散らした元就は、悔しい筈なのに、両頬を上げて微笑む。貴様には負けぬ、といった態度で、元親の大口へ持っていたヘビイチゴを放る。
あわや、あの触感がもう一度。元親は覚悟してみせたが、同じ手を食らう阿呆ではない。元就の唇に噛み付き、受け取った実をそのまま口の中へ押し込んだ。
目を見開き、元就が身震いする。うっかり、噛んだらしい。目を白黒させ、素直な反応をみせる元就に、元親は愉快な笑い声を響かせた。


* * *


「あのようなもの、食べさせおって」
眉をしかめ、不満を口にする元就の手をひく。それでも、大人しく元就は元親についてくるのだから、怒ってはいないのだろう。「俺が悪かった」と気持ち程度の謝罪を告げ、残りの距離を歩いた。
とたん、視界が開けた。薄紫が、開いた空間を覆い隠すように広がっていた。これぞ、元親が目指していた藤の畑である。
「これは、」
美しく枝垂れる藤に、元就が声を失う。元親も始めてここへ来た時、言葉が出てこなかった。木の枝に細い蔦を這わせ、それを頼りに花を垂らす。丸い花弁の粒を行儀よく揃えた花は、見ているだけで、整然とした気持ちとなる。
だが、言葉を失ったのは、それだけでない。何故か、絶好の隠れ場に見覚えのある子どもがいる。
「あ、鬼の兄ちゃん」
ぱっと明るい笑顔と共に、銀色の髪が揺れた。ふっくらとした両頬を挙げる。雪国にいるはずのいつきが、第一声を発していた。
「なんだ、お前ら。本当に来たのか」
隣には、魔王織田信長に無邪気に従う森蘭丸もいる。二人して、ゴザの上で甘味を広げていた。まさにそれは、元親達が催そうとする、花見であった。
「魔王の子。そこで何をしておる」
元親の巨体に隠れていた元就が、ひょこっと顔を覗かせる。二人と甘味を確認すると、少し驚いた声で蘭丸に問いかけた。
「光秀に、ここに来ればお前達がきて、美味しいもの食べれるって聞いたんだよ」
「オラは、こいつが悪さしねえか監視してるだ」
むん、といつきが胸を張る。頬に付いた餡がなければ、もっと頼もしい。
「なんてこった」
元親は頭を抑えた。まさか、明智光秀が子どもを使ってまで、二人の花見を阻止しようとしてくるとは。元就の言葉を借りれば、「計算してないぞ」につきる。
これも、卯月の花見を断った仕返しか。腹の虫も頭を押さえ、失望のあまり声を発さない。
昼間から子どもの前で酒を飲むなど、教育によくないと元就は怒るに決まっている。それでは、本当にただの花見になってしまう。元就どうする、と問いかけようとしたとき、
「鬼の子。そのコンペイトウとやら、我の菓子と交換せぬか」
元就はすでに花見の席に馴染んでいた。持参した、重箱の箱を開けてみせ蘭丸と話している。おそらく、蘭丸に持たせた菓子の品も明智が用意したものだろう。元就の食欲を刺激する、美味しい美味しい京菓子だ。
「そんなことしなくても、一緒に花見すればいいべ!ほら、鬼の兄ちゃんも」
小さな手に引かれ、元親も花見の席へ招待された。
「嬉しそうに手なんか繋ぎやがって。お前、そこの鬼が好きなのか?」
「な、そんなことないべ!」
蘭丸がいつきを茶化し、二人は子犬が甘え吠えするよう、憎まれ口をたたき合う。性別の垣根を知らない、単純に子供の時を楽しむ笑顔。平穏を絵に描いたような光景を前に、引き返すなどできない。
しぶしぶ腰を下ろし、元親は空を仰いだ。晴天に、藤が雲の如く浮かんでいた。手に届く藤を摘み取る。実際の雲を掴んだことはないが、触れば藤のようにふさふさしているのだろうか。
「おい、がきんちょ」
「なんだべ、鬼の兄ちゃん」
 蘭丸に茶化され、頬を膨らませるいつきを手招いた。隣を叩いて、そこに座らせる。
「ちょっと大人しくしてろよ」
いつきの髪に、摘み取った藤を絡ませる。藤が少し大きく、不格好かもしれないが、十分に可愛らしい。
「別嬪が増したな」
「わあ!ありがとだべ!」
 頭を傾ければ、風に吹かれたように藤も揺れた。雪色の肌には、淡い藤の色がよく映える。頬に当たる花弁に、いつきが破願した。元親も、純粋な笑顔に釣られて微笑んでしまう。
「結び方、教えてくんろ」
 いつきに結い方をせがまれる。元親は適当な藤を選び、蔦を器用に結って見せた。
「器用なものだな。姫若子と呼ばれただけはある」
「うるせえ」
 京菓子を包み紙の上できりわける元就が呟いた。懐かしくも恥ずかしい過去の事実に、元親は良い返す言葉もない。確かに、髪を結う技術は姫若子時代に学んだ。この場へ来て、己の髪を結った覚えもある。
「兄ちゃんも、結ぶといいだ。オラが結んでやるべ」
 もくもくと菓子を食べる元就へ、藤を持ったいつきが近づく。教わった結い方を、さっそく実践したいようだ。
「う、うむ」
 咀嚼中の元就は「やめろ」の一言が、口を満たす菓子が邪魔で出ないらしい。それを良い事に、いつきが元就の髪を結ぼうとした時だ。
高い草の山が揺れた。驚き、もぞもぞと動く草に視線が集まる。何やら白い物が浮いていた。
「やっとお会いできましたね、元就公」
「!」
それが飛び出し、聞き覚えのある声で丁寧なあいさつを述べた。草ではない。明智光秀だ。
「なんだ光秀、お前来たのか」
 木に登っていた蘭丸が、猫のようにしなやかな着地を見せる。明智の変態っぷりに免疫を持つ少年に、この先怖いものはあるのだろうか。平然と光秀に近づいていく。
「ええ、私も花を愛でるのは好きですから」
「・・・」
 元就といつきは明智を見たまま言葉を失っている。ぱさりと、いつきの手に持つ藤が落ちた。
「逃げるぞ、元就!」
咄嗟に、元親は元就を小脇に担ぎあげた。来た道を無我夢中で走る。
明智を見たらまず逃げろ。武将として惨めだが、体が明智を認識した途端に反射したのだ。
元就は、饅頭の咀嚼途中でものも言えない。何か言いたげにばたばた手足を伸ばす。その腕は菓子を求め、あらんばかり伸ばされている。菓子との愛おしい逢瀬を邪魔された、なんとも悲しそうな表情をしていた。
「もう、追ってこねえだろうよ」
十分走ったところで元就を抱えたまま、元親は草の中に倒れた。息が乱れ、足の筋肉がひきつる。生い茂る草に柔らかく包まれ、眠ってしまいそうだ。
「執拗な男ぞ」
 やっと口の中の物を飲み込んだ元就が、のそのそ元親の体へ這いあがる。花見を中断された怒りに、元就もまた眉間に皺を寄せる。まだあの菓子を食べていなかったのに、と声を震わせた。
「食い物で良い気分になった所で、現れるなんて。小賢しいやつだぜ」
 二度目の邪魔に、元親も苛立ちを感じる。
(これじゃ、俺の計画が全部水の泡じゃねえか)
 元親は唇を拗ねらせた。弥生月に考えた己の策を、どことなく真似されたようで気に入らない。
「あ、あいつ」
 元親は飛び起きた。その拍子に、腹に跨っていた元就がころりと落ちる。
(まさか、明智も花の下に菓子を並べて元就を誘う計画だったてのか)
まったく同じ策を練った事実に、元親は残酷にも気付いてしまう。
「くそ、あの変態野郎!」 
 思考回路は、変態と同じだった。そう思うと元親は居たたまれなくなる。深い新緑に向かって吠えた。


* * *


弥生月に眺めた梅の木は、花弁が消えた寂しさをうめる代わりに、青々とした梅の子を実らせた。いづれぱんぱんに肥えた果肉は、人の手により美味しい梅漬けとなる。
桜の根元で、みな多いに宴を催した卯月。桜色の花弁も土に溶け、繁る葉が青天井を敷いている。兎にも角にも、元親が施した花見の為の策は、全て露と消えた。
その冷たい露と雨ばかりの睦月は嫌いだ。信仰している日輪が隠れ、洪水を心配させるほど雨の振る月を、元就が好むはずもない。元親もまた同様。
恵の雨は嬉しい。だが、足元を愚図つかせる悪い癖は頂けない。気を抜けば泥に足を救われ、ひっくり返されている。
何処からともなくやって来る雨雲は、もうもうとした体から溜め込んだ水をいっぱいに吐き出す。満足し、どこかに流れていったかと思えば、また体に水をためた雨雲が流れ着く。これを一月近くも繰り返されれば流石に都合が悪い。
元親の足となる船旅が非常に難しい上に、中国へ向かう機会も少なくなる。下手をすれば渡れない大事態となるのだ。
高いところに逃げたその邪魔者を晴らそうと、槍を向けた所で届かない。最新兵器のカラクリを向けてもよいが、湿気に晒された火薬は役に立たないただの粉になり下がる。打つ手もなく、早くどこかに飛んでゆけ、と下からにらみ付けるしかない。本当に、雨は煮ても焼いても食えない奴だ。
しかし、雨によってもたらされる幸運もある。元就は雨の日に、酒をよく飲む傾向がある。
朝から執務に励み、読書が済むと、あらかたする事もなくなる。外に出る急用がないかぎり、自然と暇を持て余す。頭をいくら働かせようとも、体が疲れ知らずで夜はなかなか眠れない。そんなとき、寝付きが良くなるよう、元就は酒を舐める。
今夜も、元就は酒を舐めた。外は小雨。執務も滞りなく済み、二人して杯を片手に、蛙の声に耳を傾けた。程良く酔いがまわり、瞼も眠気を告げて下がる頃、元就と軽い口付けを交わし、おやすみと別れる。
元親は客室に戻った早々、綺麗に敷かれた布団へ倒れ込む。5日も滞在すれば、借り物の布団もしっくりと体に馴染んでくる。すぐに心地よいまどろみに包まれ、体と意識が沈んでいく。
「元親」
 元就の声に、鼓膜を揺すぶられた。元親は薄く目を開く。夜は更けたばかりで、元就と別れてから時間はあまり立っていないように思える。
「起きよ、元親」
 もう一度、元就の手のひらが体を這う。何かを語りかける懸命な手つきに、元親は元就が何をしに来たのか考えた。元親と元就は同盟主兼情人の関係で、夜更けに難しい話しをしに来たとは思えない。ならば、
(世這いに来たってのか)
珍しい事もあるものだ。元就が自ら元親を求めて来るなんて。安易な発想だが、元就の好意に元親は喜ぶ。はっきりしない頭でその腕を引き寄せた。
元就との情交は好きだ。しかし、やっと襲ってきた眠気に、今は交わる気になれない。睦みあうなら、また明日。だから今夜は一緒に寝ようと、元親は元就を布団の中へ入れる。
「何をする。起きろ」
 嬉しがっている筈の声は不機嫌だ。暖かい布団の中で、餓鬼のように暴れまわる。ぎゅうぎゅう抱きついて、元親は大人しくさせようとしたが勢いに負ける。恋しい布団を剥ぎ取られては、いよいよ為す術がない。
「元親、行くぞ」
 元就の一言に引きずられるまま、城外に出る。雨は止んでいた。初夏の香りと雨で澄んだ空気を、胸いっぱいに満たす。
「転ぶぞ、元就」
 行き先も告げず、元就は夜道を歩いた。雨上がりで、土はぐずぐずにぬかるんでいる。足元を救われはしないかと、元親は口煩く気遣うが、それでも元就は泥を蹴飛ばし道を進んで行く。草履だけを履いた素足が汚れることも厭わない。
 そのまま山道に差し掛かった。元就は山道を反れ、何故か道でない緩やかな斜面を登ろうとする。意気込み、くぼみのない草原に足を掛けた。
「!」
「元就!大丈夫か」
土が重みで崩れ、元就の体も下がる。小袖の裾が泥水を吸い込み、下垂れた。元親は後ろから、地に手を突く元就を支える。
「大事ない」
 人の心配をよそに、元就は元親の手を振り払い、また斜面を登る。月夜に照らされる細い脚は、綺麗な線を描き掛け上がる。
「ついて参れ」
登り切った元就が、上から元親を見下ろした。元就について来いと言われれば、元親は何処までもついていく。「応」と短く答え、元親も斜面に挑んだ。
「山道に戻った?」
 斜面を上がれば、また一般的な山道に出る。山道、蛇の道、また山道と、元就が使おうとする道が分からない。
「近道ぞ」
 元就は得意げに鼻を鳴らす。先ほどの斜面は、近道をしたいがために登ったのか。元就らしくない行動に、元親は戸惑う。
 それも今日に限っては仕方がないか、と元親は微笑む。元就は随分と酔っているのだ。寝る前に飲んだ酒が抜け切れていないのだろう。だから、こんな突拍子もない行動で元親を驚かせる。酔っぱらった元就に、数回翻弄された過去は何度かあるので、理由が分かってしまえばすぐに腑に落ちた。
「行くぞ」
 酔った面を見詰めていると、遅いと元就に手をとられる。元就の歩調で、ずんずん山道を進んで行く。そして、連れられるまま岬に着いた。
そこに、一面に開けた紫陽花が群れを成していた。蒼い花弁が集まり、内陸に海を作る。月の光に、雨露が照らされ、それこそ揺らぐ水面だ。
「元就、ここ」
「良い場所ぞ。ここなら、誰にも邪魔されぬ」
 手を放し、元就はふらふらと近づく。紫陽花の中に立てば、海の中にいるのと同じだ。元親も、花の海を泳いで渡る。
「花見を、したかったのであろう。梅も桜も、藤も散ったが、紫陽花も見物ぞ」
 元就は、紫陽花の群れに倒れた。ふふふ、と紫陽花に埋もれ笑う。
 元親は、唖然とした。咄嗟に、顔を背ける。元就と二人きりで花見をしたい気持ちが、本人に筒抜けていたのだ。稚拙な考えを、全て見抜かれていたと分かると、どうも気恥ずかしい。
「嬉しそうな顔をしおって」
元就の優しい目元が元親に注がれた。珍しい頬笑みを、元親は見つめ返す。心臓が高鳴る。息が弾む。一瞬の気恥ずかしさも吹き飛ぶ。
実のところ、花見などしてもしなくてもよかった。その無邪気な笑顔を、元親だけに向けてくれれば。梅に頬を添えるでもなく、他人と楽しそうに菓子を食べるでもなく、いつも傍にいる元親に向けてくれれば。花見に執拗したのもそれだ。弥生月から引きずり続けた、もやもやとした幼い嫉妬が、ここでやっと丸く治まる。
「良いよな、盛りの花は」
ようやく得られた幸福に、元親も微笑む。元就と同じ様に、紫陽花の海に身を沈めた。火照った体に触れる、雨露が心地よい。




2010.9発刊『花は盛りに』
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。